8月2014

7月の例会=報告

7月例会
平成26年7月20日(日)

「居留外国人による新潟での居住をめぐる諸問題」
新潟県立歴史博物館副館長・本会会員 青柳正俊 氏

〈講演要旨〉
新潟が明治初年開港五港の一つとして期待されながらもなぜ発展しなかったのか、その理由について従来次の三つにまとめられている。
 1 港が悪かった。
 2 商品の集積がなく後背地に乏しかった。
 3 貿易を発展させる地元の消極性
この中の一つ目は妥当性があるかとは思われるが、二番目、三番目は違うのではなかろうか。私は新潟が貿易港として発展しなかった背景には、開港五港のうち新潟のみ外国人居留地がなかったこと、そのため外国商人が安定的な貿易を行うことができなかったことが大きな意味を持っていたのではないかと考えている。
新潟の居留地についての問題を端的に指摘しているのはイギリス公使パークスである。彼が明治15年6月「新潟でも他の開港場と同様に外国人使用のための一区の居留地を設けるべきである」、同16年3月「新潟での交易の停滞は港施設の不備だけが原因ではない。外国人が堅固な建築物を建てられない現状がそうした停滞に少なからぬ影響を与えている」と発言している点が注目される。
実際、開港最初期の新潟における外国人借地借家の状況を調べてみると、「新町通の一角(本町通七番町464~5番地)」と「一番山の三筆(字浜浦5232~4番地)」の二か所の土地についての貸借が確認できる。そして「一番山の三筆」の契約書(約定書)の更新条件についての和英文言を比較検討してみると、その文章には齟齬が生じていることがわかる。その後も長く維持されたこれらの借地は、こうした最初期のずさんな契約ゆえに生じた例外的な事例だったのである。
私は今「明治政府は新潟の外国人をいかに住まわせたか」を詳細な年表として試作中である。その年表から、新潟に外国人が居留し始めると当初は居留取極の原則に近いかたちで運用されたものの、やがては借地借家の一件ごとの審査が始まり、新潟の外国人と地方行政(県)、あるいは外国公使と中央政府との間で、時には大きな摩擦が生じていることを見ることができる。
摩擦を生じながらも明治18年土地貸借規則案がとりまとめられたが、結局この規則案が施行されることはなかった。そして新潟において、外国人に対して永代借地権が与えられず、しかも外国人による借地借家が日本政府による一件ごとの審査を経なければならなかったため、外国人が土地家屋を安定的に確保することが事実上不可能であった。――このことが新潟の外国貿易不振の背景にあったと考えられよう。

日本政府(外務卿寺島宗則)とイギリス公使パークスとの土地貸借規則について、興味深いやりとりを講演の中で青柳氏は詳細に報告された。青柳氏からその「やりとり」の一部をまとめていただいたので紹介する。以下は青柳氏の文章である。(編集部)

明治10年9月、日本政府は外国人との土地貸借規則について、政府案をまとめてパークスとの交渉に臨んだ。大きな節目であったと思う。この時点で双方が了解する規則が成立していれば、外国商人は安定的に商業活動ができ、新潟港を通じた外国貿易はもっと盛んになったかもしれない。しかしながら協議は不調に終わった。

ハリー・パークス(駐日イギリス公使)
「土地貸借の期限を25年以内と定めたのはどういったお考えからか。」
寺島宗則(外務卿)
「政府が公益のため土地を収用する時、有償で買い上げる土地上の家屋を築25年までと定めたからである。あるいは、外国人が土地購入代金を日本人に預けて、日本人名義で土地を購入するような事態を防ぐためである。」
パークス
「新潟の外国人居留取極では「外国人が新潟で自由に居住するのを妨げない」と規定されている。この取極に反するではないか。25年という期限を設けられては、誰一人として新潟に家屋を設けようと思わない。貴国政府は、新潟では外国人に家を建てさせたくないのか。再考願いたい。」
寺島
「何年経っても家がある限りそれを買い上げよ、というのでは政府にとって迷惑である。居留取極では「ただし借地する際には県庁の許可を得ること」としており、その許可要件を定めるまでのことである。」
パークス
「年限を定める必要はない。外国人居留取極を定めた際には、新潟の土地を25年しか借りることができない、などという話しはなかった。」
寺島
「その時は、土地はすべて政府のものであったが、今は人民のものである。状況が違っている。外国人へは土地を無期限で貸すわけにはいかない。」
パークス
「それはなぜか。」
寺島
「外国人は我が国の法律に従わないからである。それに、当方としても外国人が25年以上居住してはならない、と言っているのではない。地主が了解すれば借地の更新は可能である。」
パークス
「いったん年限を定めてしまえば、その後は貸してもらえないかもしれない。あるいは地主が借地料を吊り上げて、その結果、借主の外国人はやむを得ず家を安価で売り渡さざるをえないかもしれない。」
寺島
「それは当事者同士で話し合えばよい。とにかく、年限がなければ永遠に貸すことになってしまう。」
パークス
「では100年にせよ。どうしても年限を定めるというなら100年にせよ。イギリスではよくある借地年限だ。」

5月の例会=報告

5月例会
平成26年5月17日(土)

「デジタル化と郷土史」
新潟郷土史研究会会員 齋藤倫示 氏

〈講演要旨〉
デジタル機器を使って郷土史をどのように調べていったらいいのか、どのような使われ方があるのか、幾つかの事例を示しながら話を進めていきたい。
ある旧家で『新潟湊之真景』絵図1枚が見つかった。やや虫食いの部分があったがデジタル化し、虫食いの部分を修復することができた。私が「郷土新潟」54号で発表した『双六で辿る北国街道』は、史料をデジタル化することにより汚れた部分を取り除いて掲載することができた。さらに『越後春日山旧図』や白山神社所蔵『大船絵馬』もデジタル化し、拡大することにより詳細な部分まで読み取ることができるようになった。
商人定宿のとや伝右衛門『引き札』には越後国内の宿駅や名所旧跡、全国各地の地名が数多く記載されているが、地名の読み方がわからない場合など、当該地の資料館に問い合わせ、すぐに回答をもらうことが可能である。また、『東講商人鑑』は全国各地の図書館や大学図書館に所蔵されデジタル化されている例が多いが、早稲田大学附属図書館所蔵の『東講商人鑑』には「明治十三年八月六日午後……新潟開以来大火 五千五百四十四戸」」の書き込みがあった。この書き込みからおそらく『東講商人鑑』のもとの所蔵者は新潟の町民であり、明治十三年の新潟大火後に早稲田大学の蔵書になったのであろう。
長谷川雪旦『北国一覧写』の中に「元町」が記載されているが、この「元町」が今のどこになるのか、デジタル化された古地図や『東講商人鑑』の記事などを検討することによりはっきりさせることができた。さらに新潟県立図書館所蔵・郷土コレクションデジタル資料『近世新潟町屋並図』と川村修就文書『新潟町中地子石高間数家並人別帳』とを見比べながら「片原三之町西方 間口七間三尺 井上屋庄三郎」の屋敷地も知ることができた。
このようにデジタル化により情報の収集や修正、検索、研究、新事実の発見、遠隔地との交流など多くの恩恵を受けることが可能である。それ故新潟市をはじめとした行政、公共機関の積極的なデジタル化の推進を強く願っている。