5月2023

5月の例会=報告

5月例会

令和5年5月21日(日)

新発田藩の銃隊について 

講師:本会会員 富井 秀正 氏

<講演要旨>

溝口秀勝は越前国北庄城主堀秀治の与力で、慶長3(1598)年秀治の越後移封にともない新発田へ入部し、初代新発田藩主となった人物である。この新発田藩(溝口家)の藩士及び銃隊が幕末にどのような動きをしたのかを見ていきたい。

幕府は天保年間(1830~43)西洋砲術を導入し、これが諸藩に伝わっていった。新発田藩では嘉永4(1851)年和流砲術師範藩士佐治孫兵衛と堀一藤次が西洋砲術修行のため江戸行きを命じられた。二人は江川太郎左衛門の門人井狩作蔵に入門し、二年後免許皆伝となって新発田に帰藩した。そして藩内で他の藩士に砲術指導を行った。

元治元(1864)年新発田藩では銃隊に主力をおいた洋式訓練、砲術稽古が行われた。まず藩士に訓練を行ったが藩士だけでは人数が不足し、村役人とその身内の者で15才から50才の者が1000人集められ城内で訓練が行われた。この時の「定」がある。「定」には稽古に精を出す、勝手なことを慎む、先輩に従う、火薬を粗末にしない等々が記され、これらのことを誓って稽古が始められた。

銃隊稽古が始まると、経費が増大し訓練期間が長く、しかも物価高騰などで迷惑している、隊員の士気にもかかわるので補助金を下賜してほしいと、隊員手当の増額を願い出る名主・組頭もいた。このような中で銃隊は大隊・小隊、太鼓隊などに組織され、また訓練では「直れ」「進め」「ねらえ」「打て」「込め」などの号令が発せられていた。

慶応元(1865)年の「銃隊組入用金拠出につき褒章通達書」が残されている。亀田町百姓甚兵衛・松三郎が400両献金し、「孫代まで苗字御免」の褒章をうけている。他にも多額の献金をし褒章をうけている者が多数おり、これらの多くの名主・百姓たちの献金によって銃隊が維持され、同時に献金により与えられた褒章が彼らにとっては非常に名誉なことでもあった。

慶応3年新発田藩は幕府から江戸城鍛冶橋御門番を命じられ、銃隊2小隊が出動した。横越組からは山ノ下新田名主ほか4名が動員されたが、動員された者たちは選ばれた優秀な者たちであった。

同4年4月非常時の備えとして銃隊の沼垂への出張が命じられたが、同年7月25日新政府軍が太夫浜に上陸、新発田藩は反幕府方として行動するところとなった。この北越戊辰戦争に関し、新発田藩は何もしていないという意見があるが、そうではなく、銃隊をはじめ様々な準備をしていたといえるのではなかろうか。