1月2015

新春講演会=報告

新春講演会・新年祝賀会
平成27年1月11日(日)
新潟会館において新春講演会並びに新年祝賀会が行われました。
新春講演会は、新潟大学教授橋本博文氏による「書き換えられた越後の古墳時代像―城の山古墳・牡丹山諏訪神社古墳の調査を通して―」と題する講演で、最新の発掘成果、研究成果が紹介され、あっという間の90分間でした。
100人を超える出席者があり、当初予定していた人数をオーバーし、急遽、机や椅子を補充する状況でした。牡丹山諏訪神社古墳をはじめとする越後の古墳時代、古代史について、興味関心を持っている人が多くいるのだと、あらためて感じました。
講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の篠田昭新潟市長の挨拶があり、乾杯の後、約2時間和気藹々、多くの人との交流を深めました。

〈講演要旨〉
越後において、古墳文化は従来上越を飛び越して下越の蒲原平野に到達したと考えられていた。しかし、妙高市観音平古墳群での前方後円墳の出現により、上越にまず古墳文化が到達したといえる。
また、胎内市城の山古墳の調査により、阿賀北地域での前方後円墳が確認され、下越にも古墳文化が早く波及していることが実証された。城の山古墳から漆製品、木棺、鏡、靫、勾玉、管玉等々が出土し、今後も調査・研究が積み重ねられていくことと思われる。
下越の前方後円墳として、西蒲区の菖蒲塚古墳が確認されているが、近くの南赤坂遺跡からは北方の続縄文土器が出土しており、北の集団と西の集団との交易が考えられる。宮城県栗原市入の沢遺跡においても、古墳文化を持っていた人々と続縄文文化を持っていた人々との交易、接触、戦いが想定され、今後注目される遺跡の一つとなっている。
古墳前期末から中期初頭に、新潟市秋葉区古津八幡山古墳が出現する。この古墳は越後最大の古墳であるが、円墳である。
今回調査された新潟市東区牡丹山諏訪神社古墳は、5世紀代の円墳ではないかと考えられる。出土した須恵器破片や円筒埴輪破片などから、近畿をはじめとした各地の勢力・技術とのかかわりが想定される。砂丘上に存在するこの古墳は、阿賀野川・信濃川の合流点であり、河川交通を掌握している有力者との関連が考えられる。近県各地の資料館には石棺の出土例やそれを復元した模型がいくつか展示・説明されている。牡丹山諏訪神社古墳にも石棺が入っていても「おかしくはないのでは」と思われる。そして、北関東や東北とのつながりについての研究も今後の課題であろう。
牡丹山諏訪神社古墳がつくられたあとは、今後の研究課題ではあるが、南魚沼市飯綱山古墳群の中期群集墳の台頭にみられるように、一つのクッションをおいて、南魚沼に政治的拠点が移っていったのではなかろうか。
牡丹山諏訪神社古墳をはじめ、今後も発掘・調査・研究を継続し深めていかなければならないと考えている。

橋本先生ご講演



講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の新潟市長篠田昭氏からご多忙の中ご出席いただき、激励のご挨拶をいただきました。

2015年 新年祝賀会



当会名誉会長 新潟市長 篠田昭氏

12月の例会=報告

12月例会
平成26年12月20日(土)

「横越神社の風景―熊野若宮社と神明宮の合殿―」
本会会員・(財)北方文化博物館理事 神田勝郎氏

〈講演要旨〉
私の地元にある横越神社は熊野若宮社と神明宮とが合殿された神社である。今年の1月『横越神社の風景』と題し1冊の本をまとめることができた。
熊野若宮社は若一王子(にゃくいちおうじ)と呼ばれ横越下郷宮原に、神明宮は横越上郷にそれぞれ古く勧請された神社である。明治7年に熊野若宮社が神明宮の社地に移転し合殿を果たしていたが、大正8年の「奉遷宮村社 熊野若宮社・神明宮合殿御移転」の棟札も存在していた。
幸いに大正8年の棟札を立証する「合殿御移動」の時の古写真が五十嵐家に大切に保管されていた。その写真から、木臼を2段に重ね舟板を敷いて神殿(合殿)を載せ、木の丸太で50メートル引きずりながら移動したことが判明した。翌大正9年には横越下郷宮原にあった大鳥居も神殿移動に併せて搬送・再建された。この移設の時の古写真も幸運にも発見することができた。
横越下郷宮原の熊野若宮社の奥には、古くから「ジガ屋敷」と呼ばれた場所があり、かつては榎の大木があった。その地点はあたかも前方後円墳を思わせるような地形になっていた。また周辺には諏訪神社、千手海庵、行者塚、宗賢寺などがあり、一大宗教ゾーンのような感じのするところでもある。同時に明治5年頃の「家並図」を見ると、横越組大庄屋の建部家と小林家が並んで所在しており、横越下郷は要衝の地であったことがうかがえる。
横越神社の拝殿には安政5(1858)年の俳句奉納額や横越出身で群馬県知事を4期務めた神田坤六揮毫の扁額、さらに建部遯吾博士揮毫の大幟を写真撮影したものも掲額されている。そして昭和9年には境内地を囲む玉垣が築造され、神社としての見事な景観が整った。
このたび旧横越小学校の門柱を活用し、小林存の歌を彫字して歌碑として建立することができた。
  ふるさとの堤乃茶屋の酒悲し
      長橋渡るバスに手を振る
小林存さんらしい字であり、自分のふるさとを偲ばせる歌である。そして180名の浄財によって横越神社の社地の一隅に建立されたこの歌碑は今、横越神社の新風景となっている。