1月2014

新春講演会=報告

新春講演会
平成26年1月12日(日)

「舞楽の地方伝播について―弥彦神社『舞童』を中心に―」
新潟大学教授 荻 美津夫 氏

〈講演要旨〉
舞楽とは何か、それがどこでどのような形で伝えられていったのか、また新潟県内の弥彦神社や能生白山神社などでは民俗芸能として伝承されているが、その歴史について各種史料及び映像を見ながらたどってみたい。
舞楽とは音楽を奏でながら舞を舞う音楽舞踊である。アジアの音楽が基本であるが、奈良時代までに中国・朝鮮半島から日本に伝えられ、律令制のもとで雅楽寮がつくられ、その雅楽寮の中で楽人が養成され宮廷儀式の時などで演じられた。平安時代、国風文化の傾向が強くなる中で、日本的なものとして、また日本人の好みにあった音楽としてまとめられていったものと考えられる。
実際、舞楽は、元日節会・朝覲(ちょうきん)行幸・御斎会(みさいえ)・相撲節会(すまいのせちえ)など大内裏や院、公卿の邸宅等での儀式や饗宴で行われた。また畿内寺院の仏事等でも行われ、仏教と密接な関係があった。それは敦煌莫高窟(ばっこうくつ)をはじめ仏教遺跡において、さらに日本の各寺院の変相図や曼荼羅などに舞楽の様子が描かれていることからもうかがえる。
このような舞楽は平安時代以降、多度神宮寺(伊勢)や筑前観世音寺、杵築神社(出雲)や厳島神社(安芸)等々、地方の大寺社や神宮寺などに伝えられていった。新潟県の場合も、万里集九の『梅花無尽蔵』に能生白山神社の「舞童」が、天津神社(糸魚川市)の『一之宮天津社並神宮寺縁起』に「舞楽」が出てきており、史料上確認できる。ただ弥彦神社については「舞童」「舞楽」とともに「大神楽」「大々神楽」と出てきている。なぜ「大神楽」「大々神楽」と出てくるのか、従来から研究が深められている点であるが、17世紀のころまで国上寺(旧分水町)とのつながりが強く、弥彦神社・国上寺の仏神事として舞童が行われていた。
しかし、18世紀に入ると弥彦神社の中から仏教的なものを排除する動きが強くなっていった。いわゆる神祇宗の影響である。それはたとえば元禄年間の弥彦関連文書の中に「舞童ノ祭リ 三月十八日大神楽ト云」「三月十八日舞童之神楽」などと記され、「大神楽」「大々神楽」という名称が多く使われるようになっていった。そして文政年間の史料である『桜井古水鏡』などで、「大神楽」「大々神楽」という名称についてのまとめや理論化がさらにすすめられていったものと考えられる。

講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の新潟市長篠田昭氏からご多忙の中ご出席いただき、激励のご挨拶をいただきました。

12月の例会=報告

12月例会
平成25年12月21日

「謙信時代の新潟津と醍醐寺僧の付法活動」
本会会員 小川 敏偉 氏

〈講演要旨〉
新潟町が白山寄居島に移ってくる前、どこに所在していたのかという問題は近世新潟町の変遷につながる重要な問題である。その問題について新しい史料をもとに報告したい。
高野山清浄心院『越後過去名簿』は、いわゆる高野聖が越後各地を廻り回向の依頼をうけ、それを「過去帳」としてまとめた史料である。その中に永正17(1520)年「正春 新方 田中トノ」の記事があり、現在「新潟」の初出史料と考えられる。同時に「新潟宝亀院」「新潟不動院」の記事も見ることができる。
旧堀之内町弘誓寺の「不動明王座像」像底部には「越後国蒲原郡平嶋郷新潟津不動院之御本尊」と記されており、不動院の「権大僧都法印教印」が永禄9(1566)年にこの仏像(本尊)を造らせたことがわかる。しかしこの御本尊がいつ、なぜ弘誓寺に招来されたのかがよくわからない。
『永禄六年北国下リノ遣足帳』は、戦国時代醍醐寺の僧侶が付法活動を行うため各地を廻った時の史料である。永禄7年会津を通って新潟に来ている。蒲原・沼垂を経て乙宝(法)寺へ行き約1ヶ月程滞在している。乙宝寺では伝法灌頂(真言の奥義を授け師位を与える儀式)を行っていたのであろう。
新潟津の所在について、前嶋敏氏は西川にかかる平島橋北側一帯の地域と特定されたが、平島は湊として欠陥のある場所である。湊には小高い砂丘地形が不可欠で、『遣足帳』の渡りの舟賃や距離の記述などから関屋金鉢山周辺がその所在地と考えられる。そしてふもとには町があり、元亀年中(1570~73)には白山寄居島および古新潟へ移動したと考えられる。
乙宝寺は越後における中心寺院の一つであった。醍醐寺の「史料データベース」などから『遣足帳』永禄7年乙宝寺を訪ねた僧侶は、醍醐寺報恩院正嫡「深応」の可能性が高い。また乙宝寺執事(故)小川義昭氏の研究を参考に同寺の『血脈』を遡ってみると、乙宝寺の2回目中興「俊志」の時にこの『遣足帳』の僧侶の付法がなされたと思われる。同時に新潟不動院・宝亀院も付法を受けたと想定され、乙宝寺を田舎本寺とし、新潟不動院・宝亀院が末寺となり、三寺ともに醍醐寺報恩院末の関係になったと考えられる。