1月2017

12月の例会=報告

12月例会
平成28年12月17日(土)

明治13年、新潟の挑戦―山際七司と尾崎行雄の熱き想い―
新潟県立文書館嘱託  横山 真一 氏

〈講演要旨〉
明治13年は新潟だけでなく全国的に熱い時期を迎えた年である。また西南戦争の3年後で物騒な年でもあった。当時の日本は文明開化の波が広がりはしたが国会や憲法はなく、近代国家として独立した状態ではなかった。しかも不平等条約は未解決のままであった。
明治12年10月尾崎行雄が福澤諭吉の紹介で新潟新聞主筆として新潟に来た。22歳の青年であった。当時すでに自由民権運動は始まっていたが、尾崎と山際七司が知り合うことで新潟における国会開設運動が始まっていく。同13年1月の尾崎・齋藤捨蔵宛山際の書簡、同年4月5日付山際宛尾崎の書簡が残されている。この書簡から山際が国会開設をめざし尾崎に教えを請うていることがわかる。
山際は嘉永2(1849)年新潟市黒埼に生まれ、父の死去により木場村庄屋を相続、31歳で県会議員、42歳で国会議員となったが、翌年43歳で死去した。彼が県会議員の時に尾崎と知り合い自由民権運動に加わり、各地の民権家と交わった。
同13年4月第1回国会開設懇望協議会が新潟市で行われた。会長に山際、副会長に西蒲原の豪農小柳卯三郎が決まり「国会開設建言書」が作成された。この建言書を持って山際は上京したが、すぐに2回目の協議会が弥彦で行われ「国会開設請願書」が作成された。そして全9条の「大日本国国会権限」がつくられた。
同13年11月国会期成同盟第2回大会が開催され山際と元高崎藩士渡辺腆が参加した。しかし国会開設請願書の天皇への上奏は拒否され、政府は「法律五三号」を公布し国民の請願権を制限していった。このような中で山際は尾崎の意見をきいている。
尾崎は安政5(1858)年、今の神奈川県で生まれ、慶應義塾、工学寮で学び、文筆、出版活動に熱心であった。新潟時代の彼の活動については新潟新聞の社説や各地での演説の演題などから知ることができるが、彼の姿勢は政治的なものではなく、新潟県民を啓蒙していくという面が強かった。なかでも彼の「尚武論」は彼の考えを知るうえで基本となるものである。「武を尚んで活発・進取・敢為の気象を発揮せしむるは今日の最大急務である」ことなどを人々に伝えたかったのであろう。
歴史上の人物をどのように評価するかは難しい問題である。人間は多様な側面をもっている。人物に様々な側面があることを知れば歴史上の人物を見ることが楽しくなってくる。このような視点で今後も県内の人物を見ていきたい。