7月2021

7月の例会=報告

7月例会

令和3年7月17日(土)
「川・街・港 変わりゆく風景」展を観る
新潟市歴史博物館学芸員 藍野かおり 氏

<講演要旨>
 今回の「川・街・港 変わりゆく風景」展は、アマチュアカメラマンの桜井進一氏による作品展であり、同時に信濃川を軸に、川・街・港がどのように変わってきたのかをテーマとした展覧会である。
 現在の新潟駅が旧新潟駅(流作場)から移転したのは、白新線の計画とのかかわりが強い。白山駅と新発田駅を結ぶ白新線の計画は昭和14年からあったが、戦争中で中断、戦後の昭和31年開通をみるに至った。白新線の開通とともに新新潟駅の建設が同31年末に始まり、同33年4月29日に完工式が挙行された。新新潟駅は緑色の2階鉄筋コンクリート建て、ホームは4面、食堂など地階の名店デパートが開店した。駅前の東大通りの道幅は50m、緑地帯を設け周辺は耐火建築のみ許可、電柱を地下化し美化と防火対策を兼ね備えた街をめざした。同36年頃から帝石ビルやリッカーミシンビル、NHK新潟放送局が建ち始め、駅前の風景は大きく変貌していった。
 万代周辺は新潟交通の関連施設が多く存在していたが、戦後のエネルギー不足を解消するため天然ガスの採掘が行われ、ガス井戸が25基もあった。しかし天然ガスの採掘を原因とする地盤沈下が顕著となり、同34年から規制が強化された。
 万代周辺の変化を決定づけたのは同39年の新潟地震であった。新潟交通の各施設は壊滅的被害を受け、老朽化した施設の建て替えを余儀なくされた。同時に経営の多角化が検討され、同40年代新しい繁華街として万代シティが誕生、バスターミナル、ダイエー新潟店、万代シルバーホテルなどが建設され、万代周辺が新潟市の一大中心街になっていった。
 戦時中、輸送力増強のため万代島に桟橋などが作られたが、戦争末期新潟港は機雷封鎖を受け機能不全に陥った。戦後の同27年ようやく安全宣言が出され、近海・北洋を含めた一大水産基地として万代島対岸に水産物揚場が建設された。それに伴い万代駅が貨物集約駅として完成し、また信濃川の土砂が溜らないよう導流堤が作られた。その後石油荷役の設備などもできたが、新潟地震の影響、そしてその復旧工事などで新潟港の景観は著しく変化した。同時に東港が造られ、関屋分水が完成し、新潟港の機能はより効率的な面から見直しがなされるようになっていった。
 以上、新潟駅・万代周辺・新潟港についてその変化を紹介してみたが、展示室で写真を見ながら当時の状況を感じていただければありがたい。
(講演終了後、藍野かおり、桜井進一両氏による解説のもと、観覧を行った)