12月2014

11月の例会=報告

11月例会

平成26年11月15日(土)

「新潟湊に花ひらいた文化」
元新潟県立文書館副館長 小島正芳 氏

〈講演要旨〉
私は今までの良寛研究を通じて、出雲崎町の繁栄が良寛の活動を支えていた一つの要素であったと考えている。同様に越後の文化も越後の経済活動と密接に結びついていたと思われる。今日は経済的な活動を縦糸に、文化を横糸にして話をすすめていきたい。
二代目安藤広重の安政6(1859)年「越後新潟の景」がある。新潟の川や湊の美しさが出ているが、千石船や港の賑わいの様子なども描かれている。
元和2(1616)年堀直竒は新潟を湊として整備し、税を軽くする政策をとった。都市計画に対する先見の明があったといえる。その後、河村瑞賢によって西廻り航路が開かれ、新潟湊から多くの物資が大坂へ運ばれていった。なかでも蔵米が多く、それらは商人の手を経て各藩の収入源となった。「東講商人鑑」には廻船問屋の名前が記され、「越後土産初編」には各地の名物が記されている。
松尾芭蕉が新潟に来て泊まっている点も注目される。時代は元禄年間、新潟に俳諧の広がりがあり、新潟商人は商売のみならずさまざまな文化や教養を身につけていた。
新潟は絵画についてもすぐれた絵師を出している。その代表が五十嵐浚明である。江戸や京都で狩野派、土佐派を学び新潟に帰ってきたが、五十嵐元誠や五十嵐竹沙など一族もまた有能であった。そして片山北海、飴屋万蔵、岩田洲尾、玉木勝良、田辺忠蔵、白井華陽、石川侃斎、巻菱湖、館柳湾等々、多くの文人達が活躍した。
時代が明治となり、開港した新潟においても、従来からの商人に代わり新しい商人が台頭するところとなった。それに伴い、新潟の文芸も江戸時代からのものではなく違った路線をたどることとなった。明治期、新潟の商人の目は北海道へと向かった。畳表や藁などが北海道へ運ばれ、にしん、昆布などが新潟にもたらされた。
そして新潟の文芸も、太田木甫、日野資徳、山田花作など新しい担い手たちによって活躍の場が広げられていった。この3人に学んだ人物が会津八一である。会津八一の活躍は、いわば新潟の文化が東京で再び生かされるようになった、といえるのではなかろうか。