3月2018

3月の例会=報告

3月例会
平成30年3月17日(土)

「江戸幕府編さん史料に新潟市域に住む人々の姿を読む-「孝義録」「続編孝義録料」を基に-」
新潟市総合教育センター嘱託指導主事 後藤一雄 氏

〈講演要旨〉
 「孝義録」や「続編孝義録料」は、江戸幕府から善行のために表彰された人々を一覧にした史料である。前者は享和元(1801)年に全50冊で刊行された。後者はその続編(以下の呼称)にあたり、老中牧野忠清(長岡藩第9代藩主)が文化4(1807)年に全国に書上げを命令、嘉永元(1848)年に整理は完了するが刊行には至らなかった。現存の90冊が国立公文書館に保存されている。
 表彰徳目は、孝行が主で忠義・奇特・家内睦者・貞節・農業出精などがある。民衆教化政策の一環ととらえることができるが、続編になると収納物篤実・介護・養育・幕府献金・父探索・村方支援・普請などの徳目もみられ、時代背景の違いなどを伺うことができる。
 後藤氏は、孝義録の越後佐渡の掲載人物446人(内女性118人)、続編576人(内女性144人)という膨大な史料を整理分析し、特に看過されがちな女性史の視点から再構築し、さらにこの中から新潟市域の史料を例示してお話を展開された。
 まず「三島郡尼瀬町ゆり」と「蒲原郡村山村(弥彦村)つじ」の二人の女性をあげる。「ゆり」は寛保2(1742)年に掲載されたものであるが、「越後孝婦伝」として宝暦6(1756)年刊の「越後名寄」に引用され、嘉永7(1854)年・安政5(1858)の版で単著としても流布していた。「つじ」は元文4(1739)年に示達があり、甲斐の孝女と合わせ「越後国甲斐国孝女伝」として同年に版行されている。
 さらに氏は、表彰者を越後佐渡の支配別、郡別、身分別、男女別、年令別にも分析され、特に女性の占める割合をみると25%程度であると報告された。小・中・高の教科書に掲載される女性の頻度と比較すると割合が高いとの見解が表明された。
 最後に具体的な評伝内容が紹介され、多少類型化な表現も見請けられたが、各藩・代官所などが申請するに当たり熱意を持って表現している事例も伺えた。表彰だから定型の叙述であるとの先入観を超え、評伝内容の検討をとおして社会の変遷や庶民生活の実態にも迫り得る史料として活用できるとの見解は首肯しうるものであった。

2月の例会=報告

2月例会
平成30年2月17日(土)

「画家・川村清雄と越後」
新潟市美術館学芸員 藤井 素彦 氏

〈講演要旨〉
 川村修就は初代新潟奉行として有名であるが、その孫が清雄である。清雄の高祖父川村修常は元紀州藩士で、八代将軍吉宗の御庭番として紀州から江戸へ来た17人の一人である。有力な幕臣であった川村家は修富・修就・帰元と続き、帰元の長男として清雄が嘉永5(1852)年江戸で生まれた。
 清雄が10代~20代のころ、幕末から明治初期にかけては、今までの秩序がひっくり返され、侍の時代は終わったという激動の時代であった。そのことが清雄に与えた影響は大きい。元将軍家徳川家達は駿府に下ったが、奥詰として清雄も駿府に下向した。彼はこのような時代であるからこそ外国へ留学したいと徳川家に願い出、その願いはかなえられた。清雄が20歳のころにアメリカで撮った写真を見ると、彼の目の輝きが印象的である。清雄はアメリカ、フランス、イタリアに行った先々で絵画の修業をしている。英・仏・伊語を巧みに使って学び、華麗な青春時代を海外でおくっていたと考えられる。
 清雄はヨーロッパから離れたくなかったが、明治14年日本に帰国した。帰国後大蔵省印刷局彫刻技手となったが、すぐに辞職した。辞職後の窮状を救ったのが勝海舟である。勝は自分の屋敷の一角にアトリエをつくってやり、歴代将軍像を描くよう取りはからってくれた。勝の何回かの催促によりようやく完成した「家茂像」を見て、勝は「そっくりだ」と言ったそうである。清雄は遊んでいるようで実はしっかりと取材をしていたのである。
 清雄の絵は和洋折衷といわれるが、彼にとって明治11年のパリ万博は重要であった。出品された日本の美術品は侘び・寂とは無関係な、漆や蒔絵などの高度な技術が駆使された立派な作品で、清雄に与えた影響は大きい。明治23年勝海舟死去後、清雄は「形見の直垂」を描いたが、この絵はいわば清雄の自画像で、清雄と勝との関係には強いものがあった。
 勝の曾祖父は今の柏崎から江戸に出て検校の位を得た人である。勝や清雄と親交のあった政治家波多野伝三郎は旧長岡藩士の子供である。豪農市島春城は清雄の「ヴェニス風景」を残した。与板の豪商三輪家11代潤太郎は政治家でもあったが、彼の妹テイ(貞子)は明治25、6年ころ清雄と結婚している(27年離婚)。この三輪家の楽山苑・楽山亭には明るい空間を感じとることができる。西洋の文明を経験した数寄屋趣味とでもいうような、おそらく清雄の趣味がうまく生かされた建築物ではないかと、私は想像している。