4月2021

4月の例会=報告

4月例会
令和3年4月17日(土)

戦国期の三ケ津を考える―蒲原津の盛衰と新潟町・沼垂町の成立前史―
新潟市歴史文化課学芸員・国立公文書館認証アーキビスト 長谷川 伸 氏

<講演要旨>
 目下、蒲原津について関心を持っている。特に蒲原津と鳥屋野の関係である。本日は、中世の鳥屋野の位置づけ、蒲原津の地理的・歴史的位置と蒲原津の盛衰、近世新潟町・沼垂町の成立前提としての戦国期の交通路と三ケ津について、井上慶隆氏の「親鸞の鳥屋野布教についての覚書」(『郷土新潟』59・60号)を踏まえつつ述べてみたい。
 まず、信濃側・阿賀野川と三ケ津について。中世特に戦国期に、信濃側・阿賀野川という大河川の河口地帯に、沼垂湊・蒲原津・新潟津という3つの湊(町)が古文書に表れるが、津と湊は別の概念である。津とは船と渡河点から考えた盛り場であり、湊とは水の流れと人や物が集まる場所のことである。中世以前から川と潟を使った内陸水面交通が発達し、川湊としての津が多かった。中世末期には、信濃川と阿賀野川の合流する河口部に三ケ津と呼ばれた港が発達する。天文20(1551)年には上杉謙信が三ケ津代官に蒲原津の大串氏を任命し、河口部の湊を一体的に管理した。新発田重家の乱後、直江兼続は新潟・沼垂を支配し、上杉の湊として拠点化、日本海交通の要として整備した。
 次に、中世から戦国期の蒲原津について考えてみたい。井上慶隆氏は堀之内新田(中央区堀之内)を蒲原津比定地とし、鳥屋野を蒲原津の管轄下に含まれる公領とみているが、報告者もこの説にほぼ賛同の立場をとる。その上で、今一度鳥屋野と蒲原津について考察する。親鸞は承元元(1207)年2月に越後へ配流され、健保2(1214)年常陸国笠間郡稲田郷へ移住した。越後への配流期間は7年間であったが、この間の伝承が「親鸞七不思議」であり、鳥屋野の地名がみえる。鳥屋野という地名は京都郊外にある墓地の鳥辺野、すなわち境界・結界の場を想起させる。ここから、蒲原津の西の範囲は鳥屋野ではなかったかとも考えられる。
 さて、戦国期の永正年間を境に蒲原津は衰退傾向となり、天文年間後半には「新潟・沼垂・蒲原」の三ケ津という取扱いに変わる。永禄期の「遣足帳」と比較すると、宿泊地は新潟であり、蒲原津は渡船場的になっている。新潟は永正年間の戦乱を通じて実権を握った長尾為景が新たな支配拠点として整備した湊町ではないか。蒲原津は新潟の登場により流通や徴税などの経済的な役割を奪い取られ衰退していった。
 改めて鳥屋野に着目すると、鳥屋野は蒲原津(国津)から弥彦(越後一宮)に向かう北国街道のルート上にあり、親鸞関係遺跡寺院の存在する信濃川の渡河点ではないかと考えられる。なお、蒲原神社(青海神社)、神道寺、鳥屋野山王権現の比定及び湊の位置の解明などは今後の課題としたい。