8月2022

8月の例会=報告

8月例会

令和4年8月21日(日)

「学校町・関屋地域及び小針地域 歴史から消えた幼稚園・保育園」

講師:関屋映像研究会・本会会員 石塚 端夫 氏

<講演要旨>

〇明治・大正期の新潟市と幼稚園・保育所:現代の保育に息づく「赤澤ナカ」

 赤澤ナカは夫の赤澤鍾美と明治29年に再婚同士で結婚した。明治10年代に松方デフレ緊縮財政が展開された。本県でも土地を手放す小農と集積する大地主が現れ、離農者の新潟町流入も起こった。働く女性にとっては保育の必要性は大きかった。新潟市教育会は就学率向上を図り明治32年に関屋に子守学校を開設、幼児の面倒をみながらの通学を許可した。赤澤鍾美は明治23年には私塾を新潟静修学校と改名し保育所を付設し、わが国最初の託児所を設置した。同41年守弧扶独幼稚児保護会(赤沢保育園)となる。赤澤家に嫁入りしたナカの保育は試行錯誤の連続であった。祖父母・父母から聞いた歌、昔話、遊びを保育所の幼児に試み、西堀幼稚園にも足を運び保育所に合う教育内容を取り入れていった。ナカは昭和12年夫鍾美没後に2代目守弧扶独幼稚児保護会会長となった。 

〇幼稚園・保育所の戦後から平成までの制定と保育教育の変遷

 戦前都市部で富裕層の幼児保育を行っていたのが幼稚園。有資格保姆による保育の質の高さはあったが、働かざるを得ない婦人たちのニーズには合わなかった。保育所は託児所として共稼ぎ家庭や働く婦人たちの支えとなり、着々と発展した。戦前「幼稚園令」(大正15年)は制定されたが、保育所だけは他の児童福祉施設と異なり保育を要する児童だけでなく、一般児童も対象とする施設と定めた。

 昭和26年に保育所は「保育に欠けるその乳児または幼児を保育することを目的とする施設とする」と定めた。「保育に欠ける」とは小さい子供が自分のことを出来ない3歳以下の子供を指す。保育所は幼稚園と異なる児童保護施設として位置づけられ、やがて幼稚園と保育所の二元化が固定化された。その後の高度成長期にサラリーマン家庭が増加し、「保育に欠けない幼児」は幼稚園に入り保育所の在籍率が下がった。一方で、1990年代以降再び共稼ぎが増え幼児を預けたため保育所不足となった。4時間保育を原則とする幼稚園では園児不足となり、幼稚園は生き残りを懸け延長保育、預かり保育を取り入れた。この結果「学校」として勤務する幼稚園教諭は長時間労働を強いられることになった。

 現今では保育園と幼稚園と認定こども園の体制となっている。その違いは、保育園は厚労省管轄の福祉施設、幼稚園は文科省管轄の教育施設、認定こども園は平成18年に制定され内閣府管轄の幼保一体型施設で教育と保育一体的に行い保育料は家庭状況に合わせ自治体が決め、その形態は大きく分けて4種類あり、年々その数を増やしている。

〇実業家から転身して新潟夜間中学校や新潟育児院保育所を設置した冨山虎三郎の人物像を紹介

 新潟育児園、西堀幼稚園、佐和波保育園、鏡淵幼稚園など消えた幼稚園の歴史を辿る一方、平成31年4月現在の幼稚園・保育園の状況として中央区や西区の一部の幼稚園や保育園の歴史及び現況についてスライドで紹介した。