8月2023

8月の例会=報告

8月例会

令和5年8月20日(日)

新潟名所双六と連合共進会

新潟青陵大学非常勤講師 後藤一雄 氏

<講演要旨>

 古文書だけではとらえることのできない側面を、図版資料によって見い出せないかという視点で収集するようになった。その過程で双六に出会い、子供のゲームだけではなくその歴史的活用についても考えてみた。今回は新潟名所双六と連合共進会のお話をしたい。

 双六の初見は日本書紀持統3(689)年の双六禁止の記事である。仏教の教えを表す「浄土双六」は江戸時代に成立したと思われ、女性の一生を描いた「娘一代成人双六」もある。

 今回は三種類の新潟名所双六をみる。『郷土新潟』には新潟関係の双六が報告されている。明治20年発行の45コマ一枚の回り双六「新潟名所雙六」は、振り出しが郵便電信局で官公庁、寺社、料亭、芝居小屋、商店などを回り、上がりが萬代橋(初代、明治19.11.4渡り初め)である。

 また発行年代未詳の「しん版新潟名所双六」は37コマで振り出しが灯台(ヵ)、上がりが白山神社である。日和山櫓、病院、学校、魚町魚売り、第四国立銀行、入船地蔵、だぼんこうじ(小路)などがある。この双六は明治20年の双六より以前の成立と思われる。灯台は2代灯台(明治10年)であり、3代灯台(明治15年)とは異なるためこれ以前。明治10年成立の新潟米商会所や明治12年設立の三菱会社新潟支店、明治13年新築移転された県庁が記載されていることから、明治13年から15年の間に作成された双六と推定される。

 3つめは明治34年発行の「新潟名所すご六」は、明治34年刊行の『改正新潟市全図』の裏面に印刷された新潟名所の写真と同一であり、発行者は両方とも新潟市古町通7番町の沢井清次郎である。21コマあり、振り出しは萬代橋(初代)、上がりが一府十一県聯合共進会である。商店や料亭はなくなり官公庁、寺社、勧商場、学校などである。

 連合共進会について考えてみる。明治14年一使四県連合米繭共進会、明治17年新潟県主催四県連合共進会、明治34年新潟県主催一府十一県聯合共進会を取り上げる。共進会の目的は重要物産を陳列してこれら生産業の進歩発展を図るもので、学問美術生産業に関する事物を陳列して一般に紹介し発展を図る博覧会と異なる目的をもっていた。明治14年の一使四県の共進会の米の部門では、新潟県は出品人485人(全体1,197人)で表彰数3等~6等で85人、うち6等は57人。1等から6等で表彰された全体数402人のうち、石川県は2等~6等で150人、秋田県は1等~6等で87人となっている。明治9年の勧農局「全国農産表」によると全国の米収穫量は23,677,057石で、新潟県は1,275,851石で第1位である。米の生産が最多であったことが分かる。また明治17年9月に実施された新潟県主催の新潟・石川・富山・山形の四県連合共進会は県会議事堂が会場となっている。

 明治34年の共進会会場の様子を描いた錦絵や風景写真も残されている。会場案内図に各府県の展示場所を明示、『共進会参観の枝折』には参観人心得も記載されている。翌年出された共進会報告書によると、8月10日から9月30日の来館者数218,226人、この年の新潟市人口56,268人。1府11県といっても新潟・富山・石川・群馬の4県で出品数の4割を占有。本県出品物報告には新潟県の米質は余り良くなく湿地の乾田化が必要との指摘がみえる。また表彰者の氏名・住所等の記載から、当時の米作りの地域が伺える。

7月の例会=報告

令和5年7月23日(日)

「川村修就と新潟」展について

新潟市歴史博物館学芸員 田嶋悠佑 氏

<講演要旨>

初代新潟奉行を務めたのが川村修就であるが、戦前から風間正太郎氏の研究や藤田福太郎らによる『新潟市史』編さんで川村家との接触があり、同家所蔵古文書についても触れられてきた。川村家の資料は国立国会図書館に寄託されていたが、昭和51年(1976)に新潟市郷土資料館と川上喜八郎市長の依頼により当市への寄贈が実現した。

川村家は代々江戸幕府の御庭番を務めていた。天保改革において綱紀粛正や海防にも力を尽くした。御庭番に焦点を当てた研究に小松重男氏と深井雅海氏の著作があり、天保改革に焦点を当てたものに伊東祐之氏と中野三義氏の論著がある。

明治38年(1905)1月の『東北日報』に風間正太郎氏の「川村清兵衛」という連載があり、川村家の文書を見て記事を書いている。この中で「蜑の手振り」など注目すべき資料をいくつか取り上げている。内容は古いが「川村修就」イメージ形成の歴史にとって重要である。明治の時点で、どういう資料に関心が向けられていたかという点でも興味深い。

これまでの新潟市郷土資料館、みなとぴあの企画展では川村修就の新潟での事蹟を中心に人柄や天保改革全般、海防に焦点を当ててきた。今回は広く内容を取扱い、これまで展示できなかった資料も積極的に出すなど、資料の面白さを軸にしている。

次に、今回の展示の注目資料を紹介する。新出のものとして、沢野家文書がある。これは、本町十七軒町加賀屋旧蔵の資料である。旧『新潟市史』にも言及があり、東大史料編纂所で写本も作られていたが、原本と考えられる資料が見つかったことで、意味が通るようになった。面白いと思った資料に、嘉永3年(1850)の川村修就の随筆「鳳木の記」がある。「鳳木」は文化15年(1818)から文政3年(1820)の内野新川掘削の際に水底から出土したものとされる。外観が「鳳のかしらによくもにかよひて」いたので修就が「鳳木」と名付けた。内野新川掘削により水害が減り、世が平穏になった印として「鳳木」が出現したと修就は解釈し、この工事を修就は高く評価している。次に、「嘉永元年戊申四月廿四日夕七時越後国ニテ望所白気ノ図」を紹介する。これは、嘉永元年(1848)に、修就が新潟で見た不思議な虹について詳しい者に問い合わせた記録である。修就は「白気」に関心を持ち、天変地異の予兆ではないかと幕府天文方の山路弥左衛門に問い合わせたが、山路はこの現象と災害との関係を否定している。次に紹介するのは明治7年(1874)の山際藤三郎等書簡である。維新後、東京にいた修就に対し、新潟の住人山際藤三郎らが出した手紙で、隠退後の修就の様子がわかる。みなとぴあには、このほかにも川村修就の子孫が新潟市へ寄贈した貴重な資料が保存されている。今回の展示では川村家の資料をイラスト使用などの工夫をし、わかりやすく紹介する。〈この後、展示解説が行われた。〉