10月2015

9月の例会=報告

9月例会
平成27年9月20日

「明治3年初夏の旅―新潟領事らは会津へ米沢へ―」
青柳 正俊 氏(新潟県立歴史博物館副館長・本会会員)

【講演要旨】
戊辰戦争が終わって間もない明治3(1870)年、5人の外国人が新潟から会津・米沢を巡る16日間の旅をした。この旅についてはほとんど知られていないが、外国人が旅先で見たこと考えたこと、そしてこの旅の背景や意義について考えてみたい。
外国人5人はトゥループ(新潟駐在領事代理、イギリス)、ウェーバー(新潟居留商人、ドイツ)、メース(新潟居留商人、副領事兼任、オランダ)、ミスターJ(横浜居留商人)、ミスターG(同上)である。この5人は6月16日新潟を出発し新津、五泉、津川、野沢を経て会津若松に到着。その間養蚕、茶、漆、石油、石炭、銅、金山、塩など各地の資源や産物に注目し、また旧会津藩士家族の斗南への移行も目撃している。若松県知事との面談を行い、猪苗代、大塩、米沢、小出、市野野、中条を通り7月1日新潟に帰着した。
この旅の記録については、トゥループの視察報告書(イギリス外務省資料)とウェーバーの旅行記(「アルトナ新聞」)二つを新たに知ることができた。そこには二人が実際に見た風景や人々、豊富な産物、資源が好意的、肯定的に描かれている。
当時外国人の内地旅行は日本政府の許可が必要であったが、5人の旅行は正式な許可を得ず実行された。出発直前旅行の旨を伝えられた県庁は対応に苦慮し、旅の出発を認めつつ国へは事後報告で済ませることとした。
さらに明治3年6月は、新潟通商司の設置により新潟港での商業活動が混乱していた時期でもあった。トゥループはイギリス公使館に無断で任地の新潟を離れたが、養蚕業視察中のアダムズ参事官が信州上田から不意に新潟を訪れ、彼は大急ぎで新潟に帰着している。新潟通商司騒動は明治初年の新潟港を考える上で重要な問題であるが、この騒動と5人の旅行とどうつながりがあるのか、今後も当時の史料をもとに考えていきたい。
明治2年開港後、居留民の多くは早々に新潟を去っていった。その中でとくに際立っているのはイギリスが明治12年まで領事館を維持し、同様にドイツ商人が同18年まで居留し続けたことである。このこととトゥループ、ウェーバー2人の旅行とは決して無関係ではないであろう。旅行を通じて得た新潟港後背地域への印象や評価は、日本の近代20年近く維持しえたことに少なからぬ影響を与えたのではなかろうか。そしてそれが後の北洋漁業発展へとつながっていったのではなかろうか。

8月の例会=報告

8月例会
平成27年8月2日(土)

「古墳ワールド!―蒲原の古墳―」展を観る
新潟市歴史博物館学芸課長 小林隆幸氏

今回の企画展は、親子連れで来てもらいたいということから、蒲原の古墳をわかりやすく紹介する意図でタイトルをつけた。蒲原の古墳をまとめて紹介するのは今回が初めての企画である。
牡丹山諏訪神社古墳の発見に当館が深く関わっている。当館に寄贈された金塚友之亟氏採集資料の中から円筒埴輪の破片が発見されたことが発端である。古墳は牡丹山砂丘上に存在しているが、古墳を造ったムラは発見されていない。近くの山木戸遺跡から古墳時代の土器(4世紀)が出土している。県内ではほかに魚野川流域の飯綱山10号墳から壷形埴輪が出土している。発掘調査で出土した須恵器の器台破片は5世紀前半くらいのもので、須恵器としては新潟県で最も古く、大阪の陶邑で作られたものが持ち込まれた。阿賀野川河口の要衝部に存在、川砂が出土していることから一時期河であったところが陸地化し古墳が造られたと考えられる。
蒲原平野の古墳の多くは前期4世紀代の古墳であり、特に角田・弥彦山の東麓にまとまっている。稲葉塚古墳は蒲原で最初の古墳。山谷古墳は全長37メートルで県内最大の前方後方墳。菖蒲塚古墳からはダ龍鏡が出土、県内最大の鏡である。観音山古墳は丘陵上に作られた円墳で、葺石を持つ。同じく葺石を持つ緒立八幡宮古墳(旧黒埼町)は信濃川の河口近くの砂丘上につくられた。
阿賀野川を越えた胎内市の城の山古墳からは靫(ゆき)をはじめ多くの副葬品が出土した(県内最大の前方後円墳とされていたが、最近の調査で円墳と判明)。新津丘陵の古津八幡山古墳は県内最大級の円墳。
後期になると浦田山古墳(村上)、保内三王山古墳群(三条)、大萱場古墳(長岡)が造られる。浦田山古墳は竪穴系横口式石室を持つ。かつて磐船柵の一部と考えられていた。保内三王山古墳群は4世紀に造られた後、空白期時期があり6世紀に再び造られる。ここでは古墳のすべての基本形がみられる。大萱場古墳は朝鮮半島から伝えられた火葬の風習をとり入れた横穴式木芯礫室を持つ。
また、続縄文土器を使った人々が暮らしていた痕跡があり(南赤坂・御井戸B)、北方とのつながりを示している。
新潟県の古墳を概観すると、まず4世紀に蒲原に古墳が造られる。その後5世紀後半までは古墳は全く見られない。5世紀は雄略天皇の時代で、蒲原との関係は希薄になる。5世紀後半になると魚沼で古墳が造られる。6世紀から7世紀になると頸城に古墳が造られる。宮口・水科は7世紀のもので100基ある。越後の古墳は集中域が移動するという特徴をもつ。畿内の古墳と比較して大きさはとうてい及ばないが、それぞれ個性をもつ古墳である。
(この後、講師の小林隆幸氏の案内・解説で企画展を観覧した。)