10月2016

9月の例会=報告

9月例会
平成28年9月18日(日)

伊藤家「諸日記帳」にみる三根山藩の幕末・明治維新― 一農民の見た北越戊辰戦争 ―
本会会員 伊藤雅一 氏

〈講演要旨〉
私の家に「伊藤家諸日記帳」という史料がある。2代目嘉兵衛が嘉永4(1851)年に書き始め、昭和13年まで書き継がれた日記帳である。内容は村の新築・改築、村民の婚礼・死亡、普請人足や米相場など多岐にわたるが、三根山藩の戊辰戦争関係のことが比較的詳しく記されている。
文久3(1863)年十一代忠泰(ただひろ)の時、五千石が加増され三根山藩は一万一千石の大名となった。慶応4年北越戊辰戦争に際し三根山藩は、最初は奥羽越列藩同盟についたが、まもなく新政府軍に入った。
「諸日記」の戊辰戦争関係の記事について、『三根山藩』(巻町双書20)を比較参照しながら年表としてまとめてみたが、この年表から、「官軍が五ヶ浜上陸、村中大さわぎ寝る者なし」(5月24日)、「弥彦駅へ官軍八百人来る、三根山伊藤様・太田様両人弥彦へ降参願いに御出、拙者共二十人駕籠人足に行く」(8月2日)などと、当時の村内外の様子や村民の動きをより具体的に知ることができる。
また版籍奉還後の明治2年6月、三根山藩主忠泰が知藩事として帰国、「諸日記」には「殿様江戸より御下り」と記されている。そして廃藩置県後の明治4年7月「峰岡藩知事様御免職に相成と聞く、歎ヶ敷き事に候」とあり、一般農民が殿様の動向やそれに対する感想を記述している点おもしろい。
さらに「諸日記」には明治3年9月「牧野知事様方へ長岡様より娵君様、舟戸割元より嫁入り」と記されており、種々文献を調べてみると「娵君様」は長岡藩主十一代忠恭(ただゆき)の七女總姫(ふさひめ)で、三根山藩主十一代忠泰夫人であると考えられる。
この總姫輿入れについては有名な「米百俵」とも関連しているように思われる。つまり藩政改革や救援米確保など、協力して取り組んでいた長岡藩三島億二郎と三根山藩神戸七十郎が、両藩の連携を示すために図った輿入れではなかったのか。また同時に三根山藩が長岡藩に米を送ること、それは軍事物資ではなく婚礼にかかわる米であることを内外に示すためのものではなかったのか、と考えられないであろうか。
以上、「諸日記」から、戊辰戦争は武士だけが戦っていたのではなく、農民も駕籠人足や荷駄人足として活躍していたこと、十歳で輿入れし十七歳で没した總姫のように、身分や地位のある人の行動には何らかの役割や意味があることなどを知ることができる。
歴史に名を残さない、残せない人々の史料や足跡を探求し、正しく評価するのが我々の役割ではないかと考えている。