1月2022

1月の例会=報告

1月例会
令和4年1月15日(土)

お雇い英語教師キング暗傷事件-150年目の検証
国立歴史民俗博物館プロジェクト研究員・当会会員 青柳正俊氏

<講演要旨>
 明治4年4月25日未明、新潟県雇用の英語教師エドワード・キング(イギリス人)が宿舎で就寝中に襲われ負傷した。命に別状はなかったものの犯人は逃走し、その後の大規模な捜索にも関わらず事件は未解決に終わった。明治維新後まもない新潟を揺るがしたこの事件について、事件発生から150年を経た今日の視点からその全体像を検証したい。
 これまでキング事件を扱った叙述史として『新潟古老雑話』、『新潟市史』、『新潟県史』などがあるが、事件当時に巷間で広まったという「事件は被害者キングによる狂言ではないか」との流言が殊更に紹介されてきた。また、地方史の範囲内で事件が叙述されてきた。そのため、新潟と直接関係のない事柄に触れられることは少なく、全体像が把握されていない。そこで、『稿本新潟縣史』と外交史料館「新潟県雇英吉国人「キング」兇徒ノ為負傷一件」及びイギリス外務省文書に依拠し、検証したい。
 本日の焦点は、①事件の現場の実情はどうであったか、②事件の動機はどう推測されたか、③新潟を離れてからのキングは何をしたかの3点である。事件の経過を追ってみる。キングが寄宿先の正福寺で就寝中、何者かが寝室に入り込み、刀によってキングに切り掛かり、キングは頭部・両腕手に数ヶ所の傷を負った。キングが大声で隣室の塾生を呼ぶと、犯人は逃げ去った。塾生が各所に報知し、犯人捜索並びにキングの治療ととともに、東京への報知が行われた。東京へは4月30日夜に新潟からの急報が届いた。日本政府は5月1日に朝議を開き、嵯峨大納言・副島参議らがイギリス公使館を訪問し、アダムズ代理公使に遺憾の意を伝えた。並行して太政官達が発せられ、事件捜索が始まった。
 その後事件捜索の手掛かりはつかめなかった。キングの治療は竹山屯・梛野謙秀らが行った。5月に東京から派遣されたイギリス人医師ウィーラ―の報告によると、左手前腕は壊疽状態にあったが、治療により最後には椅子に座ることができるほど回復したという。5月24日には太政官の林厚徳少弁が来県し、キングとトゥループ領事と面談、平松知事からの報告も得た。林少弁の帰京後、キングの新潟引き払いが決定した。これはキング本人の希望によるものであった。
 一方、犯人についての手掛かりはなく、明治3年11月23日東京で起こった攘夷浪士によるイギリス人教師2名に重傷を負わせたダラス・リング事件の余韻や私怨動機の認識もあったが、日本政府・イギリス側双方とも表向きには「物取り動機から生じた犯行」という理解に傾斜していった。
 傷の回復したキングは6月25日に新潟を出立し7月11日に東京に到着した。放縦や悪行も目立ったキングへは日本政府から手当金とともに、1500両を支給した。その後の事件関連記述は途絶するが、キング本人は東京築地ホテルに滞在後、耐恒学舎の英語教師に雇用されるものの給料月額30円という厳しい雇用条件であり、わずか1か月で雇用打ち切りとなっている。