9月2016

8月の例会=報告

8月例会
平成28年8月21日(日)

「関屋神明宮に奉納された和歌額」
本会会員 石橋正夫氏

〈講演要旨〉
 新潟市関屋神明宮は関屋村の形成とともに建てられた古い神社と思われるが、創立年代は未詳。祭神は天照皇大神、脇に末社稲荷神社がある。明治20年5月火災のため焼失、その4ヶ月後の9月に再建された。再建の時に奉納されたのがこの和歌額である。
 額の最初に「奉献十首和歌」と記されているが実際は13首で、本居宣長、八田知紀(はったとものり)など江戸~明治時代に活躍した13名の人物の和歌が記されている。最後に「奉額有志者」として真柄善吉など12名の名前が記されているが、この12名は関屋の人々であろう。
 本居宣長など13名は歌人や学者として、あるいは政治家として有名な人々であるが、今回は次の3名に注目してみたい。
 まず「楠正成」という詞書が記された
   きみかためちれとをしへておのへまつ
       あらしにむかふさくらいのさと
の作者野矢常方(のやつねかた)である。野矢は会津藩士、槍の達人で和歌にも優れ、彼が武士の鑑としたのが楠正成であった。戊辰戦争時彼は67歳、正規軍に入っていなかったが一人で出陣、射殺された。彼の辞世の句をうけた佐川官兵衛の句もまた有名である。
 「北征の日榎嶺にて」の詞書が記された
  あたまもるとりてのかかりさよふけて
       なつもみにしむこしのやまかせ
の作者山縣有朋も戊辰戦争に関係した一人である。明治18年新潟県と群馬県の県境「淸水越え新道」が開通し、その祝賀会が北白川宮に随行して山縣も新潟を訪れている。八木朋直などが接待役として活躍していたと思われるが、おそらくその関係で山縣の一首がこの額に掲載されたのではなかろうか。
 「右の歌ともを選びてこの宮居に奉願として」と詞書に記された
  よににほふことはのはなをかきつめて
       いのるこころもよそにしらさし
の作者日野資徳(ひのすけのり)も重要な人物である。日野は嘉永元(1848)年新潟で生まれた。全国各地を歴遊し様々な学問を学んだ。白山神社の祠官でもあった。とくに和歌に優れ、書にも秀で、交友は広く門人も多くいた。『瓊乃光(たまのひかり)』には多くの門人の名前が記されている。
 おそらくこの和歌額は、日野と八木朋直など明治20年前後、新潟の各界で活躍していた人々とのつながりの中でつくられたものではなかろうか。そして日野が書いたものではなかろうか。流麗、丁寧に書かれており、縁取りは黒漆、まわりに朱色が残る立派な和歌額である。貴重な文化財としてなんとか保存してほしいと願っている。