5月2022

5月の例会=報告

5月例会 

令和4年5月15日(日)

蕗谷虹児と花嫁人形

本会会員  齋藤義明 氏

<講演要旨>

 私が蕗谷虹児作詞「花嫁人形」を調べはじめたきっかけは、イタリア軒別館「蛍」(新潟市中央区西堀通8)前の「花嫁人形」歌碑の発見であった。それ以来種々調査を続け、今日はその結果を報告したい。

 「花嫁人形」は蕗谷虹児(1893~1979)26歳の時に作詞されたとのことである。幼い時の恋人や若くして逝った母の面影を求めて作詞したと言われているが、正式に発表されたのは雑誌『令女界』大正13年2月号が最初である。

 『令女界』掲載に至る経緯については諸説あるが、私は大正年間から昭和初年までの『令女界』の目録を調べ、西条八十、与謝野晶子二氏の雑誌寄稿状況から、西条八十説が正しいのではないかと考えている。また『蒲原』昭和47年1月号の座談会で、「実は西条八十の詩に私が絵を描くことになっていたんですよ。ところが詩がどうしても間に合わないという。じゃぼくが作ろうか・・・」と虹児自身が述べていることからも西条八十説が正しいと思われる。

 この「花嫁人形」は哀愁を帯びたメロディとともに不朽の名曲として多くの人に愛唱されているが、作曲者はヴァイオリニスト兼作曲家杉山長谷夫(1889~1952)である。そして作曲された時期は虹児が欧州留学(大正14年9月)に行く直前であろう。それは虹児が訪欧する約一か月前、楽譜出版社社長が虹児宅に来て、「『花嫁人形』の楽譜の表紙絵を描いてくれたまえ」と、横柄で恩きせがましい態度であったためにことわったと、『蕗谷虹児抒情画集』の中で回想していることからもうかがえる。

 昭和41年11月1日、虹児画業50年を記念し、イタリア軒玄関脇に「花嫁人形」歌碑が建立された。当日の除幕式に蕗谷夫妻も出席したが、虹児は妻龍子に「これで俺の葬式が終わった」ともらしたという。歌碑は現在イタリア軒別館「蛍」前に移設されているが、歌碑碑文は虹児が揮毫した字体を彫ったものである。「あねさん」が「姐さん」に、「きれる」が「濡れる」に変更された碑文となっている。

 なお、蕗谷虹児記念館に展示されている「花嫁」は虹児の代表的な作品の一つであるが、記念館を訪ねた時、「花嫁さんの右目の睫毛の上にうっすらと一滴の涙が白く描かれています」と館員の方から教えてもらった。その部分をよく見るとたしかに涙を確認することができた。画集など印刷された絵では涙を見ることができないので、是非記念館に行って実物を見られることをおすすめしたい。