1月2024

1月の例会=報告

1月例会

令和6年1月21日(日)

蒲原平野の「若き者共」 -新発田藩領を中心に-

新潟市歴史博物館前館長(当会会員) 伊東祐之 氏

<講演要旨>

 江戸時代後期に蒲原平野で「若き者共」と呼ばれた者たちの事件史料を検討して領主や村社会からどのように認識され、どのような存在であったのかを考えてみたい。

 近世~明治中期の青年団体として「若者組」がある。この基本的性格は村人としての訓練を行う場である。岩田重則は若者を3類型に分け、その一つとしてとして、東北地方に濃厚に分布し未研究の部分はあるが若者奉公人をあげている。

「若き者共」とは新発田藩領で史料に表記されている呼称であり、その実態を史料に基づいてお話しする。新発田藩の「達・触」をみると、「若き者共」は安永・宝暦の史料で「農業不働」、盆中に他村に出かけ「喧嘩口論」などを行っていると指摘。藩や村は、喧嘩口論、付休・押休等の申合や実行、祭礼・習俗の強行や暴行などを規制している。

 具体的には、弘化2(1845)年に新潟の付寄島(流作場)の若者が紫竹山新田に出かけ、7月15日に付寄島の若者共が大勢で踊見物に出かけ足を踏んだことで喧嘩が起こり、7月19日には女池新田皆応寺の相撲見物に出かけた帰りに紫竹山新田で大声、悪口雑言をなした事例がある。異装、飲酒して隣村の祭礼に押しかけ喧嘩、饗応の強要、祭礼場所の破壊などを行っていた。天保5(1834)年の「休日一件請書帳」には村が年間の休日を定めており、6日に1日休む「六歳休」もあって想定以上に休日が設けられている面もあるが、なお休日を延長して休みにする「付休」や臨時に休みを強行してしまう「押休」などの要求事例もあった。「若きもの共大勢申合自己ニ而付休等触来」の場合、名前を聞き名主に届けよと定めている。女池新田の天保12年の願書には奉公人(若者共)が付休を取った、若者仲間は集落ごとにまとまって行動し吟味に対し黙秘や欠落を行っている。「付休・押休」に対し名主への願い出で許可することもあったが、守らない場合の制裁もあった。

 さらに村の習俗とも関連し、婚礼の際に石礫を投げたり祝儀の馳走に預かったり戸障子を打ち破り家内乱す、神事の際に大勢で他村へ押しかけての理不尽な所業もみられた。小泉蒼軒の「越後志料風俗問状三之巻」には、「わかき者共」はくじ引きで選んだ村内の若い女を性的対象として束縛する「盆割」の習俗を記載。また寺社の祭礼の遊芸・芝居などに参加便乗、歌舞伎狂言見物の木戸銭請取、博奕を催すなどの事例もあった。

 このような事例を内済で収める相手は「若き者共」の「父兄・主人」であった。、この「若き者共」の年齢や家族構成をみると、天保12年の女池新田の仲間70人でみると年齢は15歳から29歳が主、奉公人が68%を占め、村の戸主の長男は3人である。蒲原地方の「若き者共」は、オジと若者奉公人などが主であったと思われる。この「若き者共」は近世初期においては一定の階層とはみられていなく、宝暦・安永期(18C中・後半)以降、社会的な意義をもつ階層となっている。

 江戸時代初期の大経営に包摂されていた家族が前期に小農として自立したが、分家などによる傍系家族の自立は困難なため家族内労働として存在するか、労働力不足の経営へ一季奉公人として供出される層がかなりいたと考えられる。彼らが労働の軽減、娯楽を求め押休、喧嘩、酒食強要、盆割などの活動をする。やがてこうした者を領主や村は「若き者共」と認識し、その活動を問題視するようになる。蒲原平野にとって経済・社会的には不可欠な存在でありながら、村の統治のなかでは周縁的存在であり、村社会の矛盾を体現する存在の一つであったと思われる。