12月2022

12月の例会=報告

12月例会

令和4年12月18日(日)

小栗忠高墓碑銘再考 -杉浦吉統・吉陽父子にみる江戸後期の学問世界-

東京大学史料編纂所学術支援専門職員 杉山 巖 氏

<講演要旨>

 小栗又一忠高は、江戸後期の旗本、新潟奉行在職中の安政2(1855)年7月に死去、墓碑は新潟市西堀通3番町法音寺にある。令和3年8月刊の小栗上野介顕彰会機関誌『たつなみ』46号は、この墓碑銘の撰文者杉浦吉陽を新潟出身とするなど若干の疑義がある。今回はこの墓碑銘を通し小栗忠高、杉浦吉陽のことや幕末新潟の学問世界について考える。

 小栗忠高は旗本中川忠英(家禄1000石・大目付)の子息、小栗忠清(2500石)の養子となり、死亡後の家督は幕末の外交で活躍した小栗忠順が継ぐ。墓碑は「小栗源忠高君之墓」背面に忠高の事績を刻む。碑文は磨滅しているが幕末頃の拓本が群馬県に所在する。

 碑文を起承転結で検討する。起、小栗家の通称「又一」の由来は始祖忠政が徳川家康に仕え、戦の先陣を切り功績を成したため「又一」を賜り通称とした。しかし江戸前期の「寛永諸家系図伝」などは「又市」と記載、これは江戸期にできあがった伝説と思われる。承、忠高は小姓組番衆、御使番、西丸目付、御留守居番、持筒頭を経て、安政元年閏7月新潟奉行、同2年7月28日病みて卒、47歳。転、忠高は部下を公平に扱い、庶民に礼儀を教え、新潟を隊伍操練の場とし海舶輻輳のため海防の備を整えようとしたが死去。結、幼くして黒岩雪堂に学び、私(吉陽)と同師。忠高は奉行、吉陽は部下。男子忠順で書院番。忠順が撰文を依頼。安政3年丙辰申2月、建碑者は忠順となっている。

 小栗忠高はいつ死亡したのかを解明する。小栗忠高の後任の新潟奉行として着任した根岸衛奮が編者である幕府の役職別職員録『柳営補任』は、忠高の死亡日は7月28日としている。しかし忠順の『日記』には、慶応3(1867)年正月から4年2月までの毎月10日に小栗家の菩提寺である江戸牛込の保善寺に墓参、7月10日には13回忌を営んでいる記録がある。また『小泉蒼軒日録』(安政2年10月24日条)には「新潟前御奉行小栗又一様7月12日曉御卒去」とあり、12日は10日の誤伝と思われる。7月28日は忠順が新潟に着いた日であり、それを待って忠高の死を公表したものと考えられる。

 撰文者の杉浦吉陽を探ってみよう。下級幕臣で書家・漢学者として知られ神田小川町に住む杉浦吉統の子息である。吉統は原得齋編『先哲像伝』に肖像と伝記があり、「一男、名吉陽、称忠蔵」とある。吉統は江戸下谷の東源院の墓碑銘に書に勝れ、柴野栗山の弟子で勘定所の下役人。学者・文人として中川忠英、大田蜀山人らとも交流があった。子息の吉陽は天保14(1843)年川村修就の新潟奉行就任に伴い部下として来港、小普請組から新潟奉行所定役に抜擢された。奉行所では学問の教官、明の漢籍『祥刑要覧』の講義、学問所観光館でも講義を担当、反面砲術の教練は苦手、役人子弟の教育に努め町人にも聴講を許可したという。慶応2年12月11日に病気のため新潟奉行所辞職、帰京後小普請組入り。新潟の学問興隆に寄与した。