8月2012

8月の月例会=報告

8月例会

「『殉節の碑』建立に携わった人びと」
新潟郷土史研究会会員 高橋邦比古氏

《内容要旨》

新潟市の新潟大神宮(中央区西大畑町)には、戊辰戦争中、新潟で戦死した会津藩士の鎮魂碑『殉節之碑』が建っている。この碑は明治23年建立されたものであるが、建立に至るまでには多くの人々の労苦・支援・悲願があった。

建立に先立つ明治17年、戊辰戦争戦死者17回忌法会が新潟市の法音寺で行われた。発起人の津田耕平・佐藤昌平、「祭文」起草者寺田徳裕・寺田徳明、「捧」起草者工藤衛守、鎮魂の詩歌を寄せた工藤張琴、田中小稲等々、多くの人々の協力があった。

明治23年『殉節之碑』が建立された。碑の撰文並びに書は南摩綱紀(明治の教育者)、石工は倉田緑司、そして碑建立の中心者津田耕平・鹿野治郎は翌24年、この紀念碑竣工の大祭典を新潟大神宮で執り行った。この時二人は三條小鍛冶宗近刀をはじめ義捐金名簿、掛物、祭文、詩歌、戦死人名簿を奉納し目録を作成、「永世保存し御祭典の時には御拝殿に陳列し、参拝者の縦覧に供してほしい」と覚書に記した。

『殉節之碑』建立の経緯について、新潟郷土史研究会会員の長井信平・小川チヨ両氏の示教を得て、先の掛物、祭文、捧、目録、覚書等々を確認することができた。碑建立の中心者の一人津田耕平は戊辰戦争後、新潟県本庁第三課地租改正掛等々で活躍、明治24年大祭典後忽然と新潟を去ってしまう。もう一人の中心者鹿野治郎は戊辰戦争後、三戸(斗南藩)から会津へ帰る途中新潟港で足止めにあい新潟で生活、14歳はじめ頃表具師八木錦水に入門、修業に修業を積み名人といわれる。昭和5年72歳で没した。

津田・鹿野二人も含め、碑建立に携わった人々について今後も調査をすすめていきたい。