5月2018

4月の例会=報告

4月例会
平成30年4月21日(土)

明治の新潟にあったドイツ領事館
新潟県立近代美術館副館長・本会会員 青柳 正俊 氏

〈講演要旨〉
 明治の新潟にあった外国領事館の中で、一番長く新潟に所在していたのはドイツ領事館である。しかしその具体的な内容については不明な部分が多い。今日は私が調査をしてわかったことをお話ししたい。
 新潟のドイツ領事館は明治2(1869)年9月から同15年10月まで続いた。新潟居留のドイツ商人が何人かいたが、その一人のライスナーが貿易商人であり同時にドイツ領事に任命されていた。当時商人であり領事であるという例は珍しくなかった。
 ライスナーは同2年9月横浜から新潟に来た。当初は同国人ウェーバーと共同で交易活動を営んでいたが、同7年仲違いのためかライスナー商会として独立した。「新潟新聞」から同商会が大量の買米を運び出している記事や、火災保険の代理業を営んでいる記事を見ることができる。彼は同15年7月新潟港を出港し、同年8月横浜港から帰国した。
 ライスナーがどのような人物であったのか、私は何回かドイツへ調査に行ってきた。彼の手紙などを手がかりに、フランスに近い絹織物業が盛んであったクレーフェルト市の文書館に行き、また彼の弟の三代後の子孫に会うことができた。子孫の家にあった家系図などから、彼が有力商家の一員であり、父親がクレーフェルト市長・郡長を長く務めた官吏であったことを知ることができた。そして彼の母親のヘーニンクハウスと、同11年から15年まで新潟に居留していた商人のヘーニンクハウスとは、おそらく親戚関係ではないかという可能性も想像できた。
 4年前ドイツに行き調べたところ、ライスナーが毎年新潟からドイツ本国へ年次報告書を送っていたことがわかった。報告内容は二種類あり、一つは新潟県庁に連絡した内容をまとめた館務報告、もう一つは米がどのくらいとれたかなどをまとめた商務報告である。
 報告書には様々な内容が記されているが、たとえばドイツ公使が同14年本国外務省に送った報告の一つに、新潟は「開港としての意味を失い」、港の施設の「工事は当分望めません」などと記された文章がある。すでに外国公使が、政府は新潟港を良くしようという意思はなく新潟の発展はないであろうと考えていたことがわかる。このような外国人の認識の背景の中で、新潟港が次第に閉ざされていくことになったのではなかろうか。
 新潟のドイツ領事館は、前半は本町通七番町に、後半は下大川前通三の町にあった。新潟はまもなく開港150年を迎える。その記念としてドイツ領事館跡地に記念碑を建立したいと考えている。記念碑建立に多くの皆様からご協力いただければ大変ありがたい。