9月2022

9月の例会=報告

9月例会

令和4年9月18日(日)

「天保9年 佐渡一国一揆 -身命をかけた義民善兵衛-」

講師:当会顧問 中村 義隆 氏

<講演要旨>

江戸時代、私の出身地である佐渡にはいくつかの一揆が発生した。中でも今から180数年前におこった天保9(1838)年佐渡一国一揆が有名である。

江戸時代は士農工商という身分による差のある社会であったが、天保の頃からその秩序は崩れ、身分制を飛び越えようという人々の思いが強くなっていった。このような時代背景の中で生じた一揆が天保9年佐渡一国一揆である。幕府はこの動きをなんとかくい止めようとし、水野忠邦による天保の改革が行われたが、その成果をあげることは難しかった。

天保8年将軍が12代家慶に替わったが、将軍交替の時は幕府から代替わりの巡見使が全国に派遣されることになっていた。この機会をとらえ、佐渡上山田村善兵衛等が中心となり、佐渡に来た巡見使に訴状を提出しようという取り組みがはじめられた。善兵衛等の取り組みに対し、佐渡全町村261か村のうち、220か村が参加、名主・組頭・百姓代など村役人層の参加も多数にのぼった。

佐渡全体の村や村人たちが善兵衛等の取り組みに参加していった背景には、佐渡における米価の変動や年貢高の上昇、貨幣経済の浸透、役人の不正を糺すという村人たちの思いなどがあった。実際訴状は天保9年閏4月巡見使に提出されたが、巡見使は「江戸帰還後追って沙汰する」旨を伝え離島してしまった。そして奉行所により善兵衛は捕らえられたが、村人たちの強い運動で釈放され、同時に小木町の問屋や八幡村名主宅などが打ち壊され、その打ち壊しは3か月間続いた。奉行所では対処しきれず、老中水野忠邦は高田藩兵200人の出動を命じ、それにより8月下旬一揆は鎮圧された。

天保9年に提出された訴状には何が記されていたのであろうか。10数か条にもなる訴状を読んでみると、その内容は多岐にわたるが、主要な点は、商売のじゃまをしないでほしいという商人・豪農層の要求と、困窮した生活を何とかしてほしいという小前百姓層の要求の二点になると考えられる。

このそれぞれ立場の異なる二つの要求を一つの訴状にまとめ、佐渡住民全体のために身を捨てて訴え出た善兵衛の姿勢が、多くの佐渡の住民から支持されたのではなかろうか。善兵衛は再び捕らえられ処罰されてしまったが、現在佐渡一国義民殿にまつられている。

この義民殿が建てられたのは昭和13年であった。日本が軍国主義へと走っていった時代である。善兵衛の「忠義」「義民」が当時の時代に利用された面があったのではないかと、今そんな思いも持っている。