9月2019

9月の例会=報告

9月例会
令和元年9月21日(土)

新潟の明治開化期イギリス人宣教医師パームの生涯と業績
蒲原 宏氏(本会名誉会員・日本歯科大医の博物館顧問)

〈講演要旨〉
 明治初期に来港した外国人医師には、ウイリス、ホイラー、ビダール、へーデン、フォック、ホルテルマン、パームがいるが、一番長く新潟に居り大きな医学実績を遺したのはパームであった。パームはイギリス人、1848年1月22日セイロン島コロンボで生まれ、エジンバラ大学医学部卒業後、エジンバラ医療伝道協会に属し、キリスト教海外伝道医師として1874(明治7)年に来日、翌年4月15日に新潟来住、1883(明治16)年9月30日に去るまで8年6ヶ月医療伝道を行うとともに医学的な調査研究、資料蒐集を行った。
 1874年に結婚したメアリー・アンダーソンは翌年の出産時に母子とも亡くなり、新潟在任中の1879年にイザベラ・カラスと再婚、1882年娘メアリーが誕生している。
 新潟での医療伝道をみると、明治8年湊町3之町ワイコフ宅、同10年本町通西側吹屋小路下(借地名陶山昶)、同13年秣川岸2で大火に遭い、同14年南浜通2で大畑病院を開業している。大畑病院ではリスター式消毒、看護師養成、クル病・脚気・ツツガムシ病の報告を行っている。明治11年8月13日付けのパームの診断書が残っている。
 またパームに学んだ16人の日本人医師がわかっており、その範囲は大畑病院(パーム病院)・長岡・中条・水原・佐渡相川と広がりを見せている。パームは1878年に「ツツガ虫」、1884年に「日本の脚気研究」、1890年に「クル病」と日本の病気についての論文を発表し、クル病については日照不足(紫外線)が主に関係していることを初めて提起している。明治期に発表されたパームの論文は現在においてもその意義が継続している。
 私はパーム研究についてエジンバラ医療伝道会に照会し、1972(昭和47)年のロンドンでの国際医学史学会でTOM.RR.TODP医師と会って伝道協会本部のテスター医師を紹介され、パームの書簡等を発見、借り出すことができた。そのなかに新潟での医療現況を著した1883(明治16)年「医療宣教の現況」を発見した。パームは帰国後、イギリスの4カ所で医療活動をし、19の論文を発表した。全英の医師名簿によると1928年に名前がみえないことから没年と考え(1928年1月11日没)、4カ所最後のケント州エレスフォード村の教会、墓地を調査し、現地の老人の助けも借り夫妻の墓とリバーサイドの旧跡を訪問することができた。また昭和52年には最初の妻メアリーと嬰児の墓を横浜山の手外人墓地で発見した。
 昭和47年9月に「パーム先生終えんの地を訪ねて」を新潟日報に寄稿。その後パームの娘アグネスからの手紙が届き、同年10月末にロンドンを訪れパームと家族の写真等を見せていただいたが、彼女も昭和52年4月に95歳で没し、パームの家系は途絶えた。
 私は今後、伝道会を脱退した背景となった「進化論者の信仰」の翻訳を課題として、教会人としての生命を自然科学者(医師)として断ち切ったパームの業績に迫りたい。

8月の例会=報告

8月例会
令和元年8月17日(土)

「開港場新潟」展を観る
新潟市歴史博物館学芸員 若崎 敦朗 氏

<講演要旨>
 今日は「開港場」というテーマでお話ししたい。まずはじめに文久2(1862)年発行の地球万国全図という木版刷りの地図に注目したい。日本人の木版技術の高さを示す一例であるが、この地図が頒布されていたことは、日本が当時すでに世界資本主義、市場世界に放り込まれていたことを意味している。
 新潟が開港五港の一つに選ばれた要因として新潟上知をあげることができる。天保14(1843)年新潟町が幕府領となったが、幕府のねらいは日本海側での異国船対策の拠点整備と、新潟町からあがる巨額の貢納金獲得にあった。初代新潟奉行川村修就は非常な能吏で、また砲術の名人であった。砲台の設置や大砲の鋳造など関連史料が残されている。
安政の五カ国条約により開港が決定されたが、新潟の開港は繰り返し延期された。それは激動する国内情勢とともに開港準備の不備によるところが大きい。慶応4(1868)年北越戊辰戦争により新潟町は戦禍に見舞われ、町は奥羽越列藩同盟の軍事拠点となり、町民は戦闘から逃れるため近郷へ避難した。
 戦争終結後新政府が樹立され、まもなく新潟は県庁所在地、県都となった。そして開港にともない新潟税関や新潟灯台がつくられ、外国との貿易が開始された。しかし、港をとりまく環境不全、冬の風波が強く水深が浅い等々から、大型船の入港は困難で貿易は不振といわざるをえなかった。それに対し国内物資の移出入は盛んで、とくに米、焼酎などが北海道へ移出された。焼酎を入れる容器として松郷屋焼の徳利が活用された。
 明治5年新潟県令として着任した楠本正隆は、外国人がみても恥ずかしくない新潟町をめざして開化政策を推進した。町名をわかりやすく変更し、高級住宅、白山公園を造成し、断髪の徹底や盆踊りの禁止など風俗の統制を進めた。同13年新潟に大火が発生し六千戸以上が焼失、近代的建築も含め新潟の町は大きな被害をうけた。
 しかし、19年萬代橋が完成、30年沼垂駅開業、31年電灯開始、32年上野・沼垂間開通、34年電話開始、そして同年新潟で一府十一県連合共進会が開催された。それは開化した新潟の街を示す絶好の舞台となった。共進会場に出品された「新潟名所すごろく」には、新潟県庁、県会議事堂、警察署、郵便局などが描かれており、共進会の主催地にふさわしい、都市化された新潟の状況が見事に表現された作品の一つになっているといえる。
(講演会終了後、講師の案内で企画展を観覧した。)