10月2018

9月の例会=報告

9月例会
平成30年9月16日(日)

東蒲原郡の林業について ―近世小川庄の材木、薪炭生産―
新潟県立文書館嘱託 富井 秀正 氏

〈講演要旨〉
 私は林野・林業について、とくに関川村や小川庄を対象に調査、研究をしてきたが、今日は小川庄の材木、薪炭についてお話ししたい。
 小川庄は現在の阿賀町を中心に、五泉市、阿賀野市、新発田市の一部を含む地域である。寛永20(1643)年以降保科会津藩の支配領域で、庄内は津川町、海道組、鹿瀬組、上条組、下条組に編成されていた。
 会津藩の山林は管理、収益の主体が誰であるかによって、御林、地下持ち林、百姓持ち林に区画されていた。また山林に関する役職として、山奉行、郡代・代官、山守が置かれ、漆、桑、明檜、杉、槻、松、黐(もち)の七種類の木については藩の許可を得て伐採しなければならなかった。
 小川庄の材木の伐り出しについては、御林の場合無許可の伐採は禁止され、御林内にある雑木でも許可を得なければ伐採できなかった。そして伐採した跡には植林をして林の保全に努めなければならなかった。
 明和2(1765)年の史料によれば、小川庄の山守は山奉行所から平堀村地蔵堂原御林の木の販売を命じられ、元木32本を代金180両で販売することを請け負っている。代金は山守と津川商人が出資し、半額を現地で支払い残りは新潟で支払うことにして、材木を川下げしている。このことから小川庄の山守は藩の命令で御林の材木販売に関わっていることがわかる。
 宝暦9(1759)年には広瀬村肝煎が小川庄の御林の木が伐り尽くされている現状を見て、御林の保護や植林、材木の伐採、活用の具体策を言上している。なお小川庄では保科松平家入封後、山改めは不要とされた。
 材木の伐り出しについて、管理、収益の主体が村や百姓にある場合でも藩の許可を得なければならなかった。そして材木を越後国の者に販売する時には材木改めを受け、役銀が課せられた。たとえば万治2(1659)年室谷村では五葉材木(姫小松)など620本を25両で新潟櫛屋半左衛門に売り渡した。この時も藩の伐採許可を得て、津川で改めを受けている。
 小川庄では越国薪(こしこくまき)と呼ばれた薪が生産され、新潟町、亀田方面に販売されたり、綱木村等から新発田町に販売されたりしていた。同時に炭焼きも行われた。焼いた炭は佐渡金山でも使われ、とくに高級な炭は精錬用として使われた。
 小川庄の漆は高品質で、会津の漆器生産に重要な役割を担ったが、今回は触れることができなかった。別の機会に是非お話してみたいと考えている。