12月2018

11月の例会=報告

11月例会
平成30年11月17日(土)

出征兵士から郷里への便り
  ―銃後からみた大東亜戦争―
本会顧問 中村 義隆 氏

〈講演要旨〉
 昭和16年12月に始まった戦争を当時大東亜戦争と言った。私は小学校4年生であったが、生徒も先生も全員が「日本は負けるわけがない、かならず勝つ」と信じていた。そんな戦争の時代に私達は育った。
 何十年も前になるが、旧岩室村の公民館を訪ねた時、出征兵士の和納小学校校長宛の軍事郵便が数百通残されていた。その中に昭和20年のはがきが164通あった。月別にみると6月が22通、7月が44通で、この2か月間で半数を占めていた。現地の兵士は負けると感じていたのであろうか。はがきの文面は、故郷の山河や風景が懐かしい、お国のために命を賭して戦いたい、一生懸命勉強してお国のために頑張ってほしい等々、似た文面が多いが、短い文章しか書けないはがきの中に、これが人生最後の便りになるかもしれないという、当時の兵士達の純粋な心情が凝縮されているように感じられる。
 「西蒲区和納地区戦没者名簿」によれば、昭和16年から21年までの戦死・戦病死者は70名である。19年が22名、20年が26名で19年、20年が非常に多い。「あそこの人が戦死した」「あの人も戦死した」と、当時「戦死」と聞いても平然とし、いわば慢性化していたと言えよう。
 このような戦争を日本はなぜ始めたのであろうか。その答えはなかなか出ない。陸軍軍務局長を務め、戦争推進の中心者であった佐藤賢了氏が自著で「我が日本は米国に操られた、米国の罠にかかった」と書いている。これはどういうことであろうか。
 昭和14年に第二次世界大戦が始まり、イギリス、フランスはドイツの侵攻に苦慮しアメリカの参戦を望んだ。アメリカのルーズヴェルト大統領は国内の民意が戦争反対であるが故に日本への強硬姿勢をとり続けた。ハル・ノートにより日米間は破綻しその結果が真珠湾攻撃であった。アメリカ世論は「卑怯な日本を叩け」と国民的一体感を形成していった。
 アジアの人々はこの戦争をどのようにみていたのであろうか。たとえばインドにはインド独立のために日本兵はよく戦っていたと考えている人がいる。「大東亜戦争以後のアジア諸国」の地図を見ると、ヨーロッパ諸国から独立した国が多い。もしもこの戦争がなかったならば独立は何十年も遅れていたであろう。現地では「独立とは戦って得るもの」と言われている。
 戦争についていろいろな見方があるが、自分で調べ、地元ではどうであったかを検討していくことが重要であると考えている。