7月2022

7月の例会=報告

7月例会

令和4年7月17日(日)

「大河津分水・関屋分水と新潟市」展を観る

新潟市歴史博物館学芸員 森 行人 氏

<講演要旨>

 今回の「大河津分水・関屋分水と新潟市」展は、大河津分水通水100周年・関屋分水通水50周年を記念した企画展である。

 江戸時代中期以降になると、水害を抑制し、新たな開発地を生み出すために、各地で放水路の開削が計画された。現在の新潟市域では、松ヶ崎掘割と内野新川が開削された。

 江戸時代、大河津(現燕市)付近で信濃川から海へ掘割を開削する計画が度々出願されたが、費用が膨大であり、大河津下流の流域では諸藩の領地が混在するため、村々の利害調整が困難であることから、実現しなかった。

 明治元年(1868)5月、大雨により信濃川が増水し、堤防が決壊して平野各地に大水害が発生した。同年7月、黒鳥村(現新潟市西区)庄屋の鷲尾政直らは大河津分水開削を願い出た。これを受け、越後府は翌年工事開始にあたるものの、政府は財政難を理由に工事を認めなかった。このため、工事費用の全額を官費で賄う計画を改め、費用の6割を地元負担として工事が再開された。しかし、地元の負担は大きく、明治5年には信濃川流域の農民たち1万数千人が負担の軽減を求めて大河津分水騒動を起こすに至った。こうした中、政府はオランダ人土木技師リンド―に分水工事の調査を命じた。調査報告によると、下流の用水取水への支障、信濃川の舟運や新潟港の機能低下を招く等の指摘があり、政府は明治8年に工事を中止した。

 工事中止後、信濃川の河身改修工事・堤防改築工事は進められたが洪水は絶えず、特に明治29年の横田切れは明治最大の水害となった。これを受け、県会では大河津分水工事の再開を求める「信濃川治水方針に関する建議」が決議された。明治40年には信濃川改良工事の議案が帝国議会で議決され、同年から国が直轄する信濃川改良工事として着手された。この工事(第二次)では、土木技術の発達により第一次工事に比べはるかに効率的に進められた。こうして大正11年(1922)自在堰が完成し、分水路の通水が実現した。

 大河津分水の完成により、信濃川下流の水量調節が可能になり、水害が激減した。これ以降、各地で排水の整備や用水の確保、農地の改良などの事業が進められた。河口に位置する新潟では、第二次工事再開と同時に河口修築工事の実施が決定し、新潟市と沼垂町の合併後の大正6年からは築港工事も進められた。都市計画に基づく街づくりも大河津分水による治水の実現と築港の成果を取り入れながら進められた。

 江戸時代や明治時代から計画されていた関屋分水工事は、昭和39年に国から認可を受け、昭和39年の新潟地震を経た後、昭和47年(1972)に日本海への通水を実現した。

(講演終了後、森行人氏による解説のもと、観覧を行った)