8月2018

7月の例会=報告

7月例会
平成30年7月21日(土)

「にいがた船と港の150年」展を観る
新潟市歴史博物館学芸員 藍野 かおり 氏

〈講演要旨〉
 当館では港に関する展示を何回か行ってきたが、今回の展示は船と港について、その形から見てみたいと考え企画したものである。
 「西洋形船舶留記」という水戸教の伊藤家が書き残した西洋型の船の入港記録がある。ここには船の外形が描かれ、船型、積荷、経由地、入港日、出港日などが記されている。たとえば工部省明治丸は明治7年イギリスで造られ、灯台が設置されているかどうか点検のための船であった。直江津を経由し明治27年新潟に着いている。また同20年の記録には、函館を経て新潟港沖に投錨したフランス軍艦ヴィペール号と、それに向かっている水先船がともに描かれている。
 新潟港は開港したからといって港の形が変わったわけではない。近世以来信濃川左岸が港であった。港口は浅瀬が多く水深が一定でなく、出水のたびに洲の場所が変わった。そのため大型船は沖合に停泊し、艀による荷物運搬が新潟港の姿であった。浅瀬や風浪のためしばしば海難事故が発生した。そもそも新潟港には風や浪をよけることのできる場所がなく、佐渡夷港を補助港として開港された経緯があり、新潟・夷両港を新潟丸・北越丸が荷物運送船として往復した。
 明治10年代後半から新潟近海では地元資本による定期的な航路運航が行われた。越佐汽船などにより佐渡夷、直江津、酒田、北海道へと航路の拡大がはかられた。また明治末からは北洋漁業が本格化していった。とくに明治40年日露漁業協約が結ばれ、「日本国臣民ハ……露西亞国臣民ト同一ノ権利ヲ享有スヘシ」と取り決められたことが大きい。このような背景の中で明治期、新潟の人々は近代的な港を造ってほしいと請願を続けていたが、それはながく無視されたままであった。
 大正3年になると沼垂側での埠頭建設計画が決定。同6年工事開始。同10年築港事業は県の事業となり、同15年第一期工事が完成した。同時に私営の臨港埠頭が使用を開始し、やがて両埠頭ともに石炭、木材などを取り扱うようになっていった。
 県営、臨港両埠頭築港後、定期航路も増えた。昭和7年から大連―裏日本線として大連航路が就航。そして上越線経由で東京―新潟―北鮮―新京の経路が最短となることから、同10年新潟―北鮮航路が政府指定航路となり、13年からは最新鋭船月山丸が就航した。
 現在大型クルーズ船の誘致合戦が激しさを増している。東港では17万トン級のクルーズ船が入港できる施設を整備。大型化するクルーズ船をいかに受け入れ可能にしていくか、新潟港としてもその施策が検討されている。
(講演会終了後、藍野かおり氏の解説により企画展を観覧した。)