12月2023

12月の例会=報告

12月例会

令和5年12月17日(日)

最後の新潟奉行白石しらいしわきとその日記

東京大学史料編纂所学術支援専門職員  杉山 巌 氏

<講演要旨>

慶応元(1865)年より同4年迄新潟に在勤し、開港に関わる行政事務を管掌した、最後の新潟奉行である幕臣白石千別の日記や関係文書を紹介しながら、千別の生涯と開港直前の新潟の様子を話したい。

初代新潟奉行川村修就の日記は、「川村家文書」(新潟市所蔵)として知られ、広く活用されているが、最後の奉行白石千別の日記は、東北大学付属図書館、国立国会図書館に分蔵されていることなどもあり、あまり注目されていないようである。

千別は文化14(1817)年、江戸幕府勘定方役人勘定組頭を務めた白石吉郎久竈の子息として生まれ、父が普請役より佐渡奉行所広間役に転任したため、文政11(1828)年3月~天保6(1835)12月迄を佐渡で過ごした。当時の佐渡には、すでに学問所「修教館」も設置されており、千別は国学・和歌なども学び、その学問の基礎が出来上がったものと思われる。

その後父が勘定所の支配勘定に転任したことで千別も江戸に戻り、天保9年12月から支配勘定見習いとして勘定方に出仕するに至り、勘定奉行の役宅新築工事などを担当し、その功績により他の担当者と共に褒章され銀7枚を与えられている。そして天保14年12月、27歳の時に白石家の家督を相続し、この頃から日記を記し始めたと考えられる。

千別は日記からも分かるように筆のたつ人物であり、弘化2(1845)年11月に表右筆に任用され、嘉永元(1848)年9月には機密文書作成を担当する奥右筆留物方、そして同4年から直轄領を管轄する代官に任用され、柴橋(出羽)、生野(但馬)、大坂谷町の代官を歴任し、安政6(1859)年2月には、外交を専門に担当する外国奉行支配組頭に登用された。

外国方在勤時代に、外国人接遇所建設、小笠原島開拓、外国公使らを攘夷のテロから護衛する「別手組」を管轄する外国御用出役頭取元締、さらに元治元(1864)年8月には神奈川奉行へと昇進し、各国公使と横浜居留地に関する覚書にも調印している。

こうした手腕を買われ、開港が切迫した状況となりつつあった新潟に、奉行として転任することとなるが、この新潟在勤時代の慶応2~4年に渡る日記3冊が、東北大学附属図書館(狩野文庫)に残されている。一方、安政3年~元治元年の日記としては『幕末外国奉行白石忠太夫日記』の名で、国立国会図書館古典籍資料室に所蔵されている。「狩野文庫本」にも神奈川在勤時代の公務日誌が残されており、「国会本」をあわせると13年にもわたる日記14冊が伝来されていることになり、外国方役人の日記としては、神戸市文書館所蔵の「柴田日向守剛中日記」と並ぶ大部の日記として非常に貴重なものである。

なお、千別は新潟奉行に就任するに際し、一旦外国奉行に任じられてから転任している。新潟奉行が外務担当の職であることを示すためであるが、このことは喫緊の開港問題を抱えて、佐渡奉行の次席であった新潟奉行の格式が上がったことも示している。実際在勤中には、英軍艦サーペント号の入港、英全権公使パークスや外国奉行の視察等があり、慶応3年10月には江戸在勤の奉行と共に2人体制が敷かれ、その重責の程が伺える。

しかし大政奉還がなされ、千別は慶応4年5月に職を免ぜられ、新潟奉行所は組頭の田中廉太郎が代理となって、同年6月に米沢藩仮預所へ引き渡され終焉することとなった。

その後隠居した千別ではあったが、明治20(1887)年71歳で死去する迄、国学者・歌人、そして新聞人として活躍し、宮内省に出仕し皇室系図を考証したり、「今様翁」と号して和歌研究に勤しんだだけでなく、『有喜世新聞』の編集長としても活動している。