6月2016

5月の例会=報告

5月例会
平成28年5月21日(土)

「白山島と新潟城―戦国期~近世初期、新潟町の形成過程―」
新潟市歴史文化課学芸員 長谷川伸氏

〈講演要旨〉
戦国期、信濃川と阿賀野川の河口には沼垂、蒲原、新潟の三つの港があった。新潟はその後の明暦年間現在地に移転し、町が形成されていったと一般的に説明されている。では移転前の新潟はどこにあったのであろうか。この問題については戦国末期、信濃川の中洲に形成された白山島とその城郭的な性格を捉え直す必要があるのではないかと考えている。
「景勝公御年譜」「越後治乱記」などには新発田重家の乱のとき、「新発田ノ要害」として白山島に新発田氏が拠点とした砦が存在し、その白山島城の奪還をめぐる激しい攻防戦があったことが記されている。
近世期に作成された絵図の一つに「越後国郡絵図」(新潟市歴史博物館蔵)がある。それを見ると信濃川河口に「沼垂 伯耆領(新発田藩)」「新潟町 丹後分(堀直寄)」と記されている。また「写」「偽文書」という評価も強い絵図ではあるが、平田義夫氏収集「古新潟絵図」(同館蔵)には「寄居殿守」とあり、「殿守」は「てんしゅ」と読めよう。そして寄居島と白山島の間に「結界川」の記載がある。これは川を掘って城を使用不能化したもので、平城の城割り、破却の作法の一例ではなかろうか。
東北大学図書館狩野文庫蔵の絵図の中に「越後寄居町絵図」がある。後世の作為性の高い絵図ではあるが、砂丘の奥に「新潟町」が描かれ、周辺に関屋、青山、平島が記されている点注目されるところである。
さらに岡山大学付属図書館池田文庫蔵「越後国新潟城図」は「偽絵図」の扱いではあるが、端裏書に「新潟 辰」「越後新潟石河出雲守居之」と記されており、石川出雲守は石川数正の子石川康長の可能性が考えられる。石川康長の娘は大久保長安の子大久保藤十郎の室である。「新潟 辰」は元和二年と推定される。大久保長安は松平忠輝の付家老で越後の政務を管轄し、佐渡を含めた一体支配を目論んでいた。いわば「新潟城」は北国街道、佐渡三道の主要拠点である「新潟」に設けられた城であったのではなかろうか。
戦国末期から近世初頭の「白山島」と「新潟城」について、近世期に作成された絵図の再検討とともに、堀直寄の元和の町建て、明暦の移転、そして急速な信濃川の運ぶ土砂の堆積による新潟砂丘の形成と「湊」化など、さらに考えていく必要があるように思われる。