12月2015

11月の例会=報告

11月例会
平成27年11月21日(土)

「會津八一をめぐる人々―青春時代の思い出―」
良寛研究家 小島正芳 氏

〈講演要旨〉
新潟には江戸時代、俳諧や和歌、絵画などレベルの高い文化が成立していた。その新潟の文化が明治以降どのようになっていったのか、會津八一を中心にみていきたい。偶然にも本日11月21日は八一の60回目の命日にあたる。
明治に入り新潟に新興の廻船問屋が登場した。明治14年八一は新潟古町で生まれた。會津家は湾月楼という料理店を営んでいたが、叔父の友次郎は俳句、和歌をやり良き新潟文化の継承者で、八一に大きな影響を与えた。
幕末から明治に活躍した俳人広川百鷗は、新潟に降雨庵をつくり第一世となった。その第四世太田木甫から八一は俳句の手ほどきをうけたが、新潟の江戸文化が細々と続いていた環境で俳句を学んだということは大切な点である。また八一が和歌を学んだ日野資徳は、歌人、国学者で白山神社の神官になった人物であるが、その日野から八一へと新潟の文化が受け継がれていった。
明治32年の信越線開通により中央の新しい文化が新潟に入ってきた。尾崎紅葉が来新し、八一は彼の宿舎を訪ねている。坪内逍遥が新潟で講演し、それを聴いた八一は魅了され早稲田へ進むこととなった。和歌の分野でも明星派の影響をうけ、山田花作との交流を重ねた。中央文壇の流れが新潟に入り、今までの地方の文化と火花を散らすことにより、八一の情熱がかき立てられていった。
平野秀吉との出会いも大きい。平野は八一の新潟中学時の国語教師であるが、平野の教えにより「万葉集と良寛の歌は同じ流れである」ということを知った。上京した八一は根岸の正岡子規を訪ね、『僧良寛歌集』を贈っている。また新潟中学で2年下の山崎良平とのつながりも大きい。山﨑は恩師夏目漱石に『僧良寛歌集』(四版)を贈り、それを読んだ漱石は良寛を高く評価している。
八一は30歳で早稲田の教師となり和歌を詠み『南京新唱』『鹿鳴集』を出版、博士論文をまとめ順風満帆かと思われたが、空襲ですべてを焼き新潟に帰ることとなった。新潟に帰った八一は数十年ぶりに相馬御風を訪ね、御風は良寛の書を八一に贈った。昭和25年戦後初の良寛展を二人で準備するが、準備中に御風は死亡。その時の「出品作品一覧」が今、糸魚川に残されている。
江戸時代以来続いてきた新潟の文化を八一が受け継ぎ、八一はそれを自らの基礎とした。八一が受け継ぎ基礎とした新潟の文化は実に偉大であったといえよう。