8月2019

7月の例会=報告

7月例会
令和元年7月21日(日)

越後国の預所―預所とは何か?―
東京大学史料編纂所学術支援専門職員 杉山 巖 氏

<講演要旨>
 「預所」は歴史的なイメージをしにくいが、以下の3点について、「預所」をとおして近世初期から廃藩置県まで続いた地方制度の特質を考えたい。
 1点目、「預所」とは何か?「預所」とは江戸幕府の所領のうち、大名家などに管理を委ねた村々のことである。幕府の直轄支配地である「御料所」に対して、代官所などの運営には経費が掛かるため、規模の小さい所領の場合は、近隣の大名家などに管理を委ねる「預所」を設置した。幕府の所領全体に占める「預所」の割合は1/5以下であった。
 2点目、越後国の「預所」は幕末の時点で5,709か村中702か村であった。「預所」を預けられた大名家では、自家の所領の村落行政を行う担当者とは別に、担当者を置いた。「預所」をめぐる事件を取り上げる。まず、預所の村同士の山論について。共に松平肥後守家(若松城主)の「預所」であった魚沼郡の田中村と大沢村との山の用益権をめぐる相論が起こったが、「預所」の村同士の争いは比較的短期間で解決した。しかし、他領との争いとなると解決に時間がかかった。それが、次の丸山興野事件である。信濃川水系の刈谷田川の堤防をめぐって、松平越中守家(伊勢国桑名城主)の「預所」の村々と新発田領の村々との間で幕末に起きた争いであり、「預所」側と新発田領側の代表者が江戸に出て幕末に至るまで裁判を繰り返すが、ついに決着しないままとなった。「預所」を預けられた大名家は、「預所」から年貢を徴収して幕府の御蔵に納めるだけでなく、その村の民政も行わなくてはならなかった。大名家にとって、「預所」は負担と気遣いが大きいものであったことが分かる。
 3点目、「預所」の終焉について。明治新政府になり、「政体書」により中央と地方の政治組織の概要が定められた。地方では「藩」・「府」・「県」という行政単位が誕生したが、大名家の預所は、基本的にはそのままであり、明治新政府が成立したにも関わらず、地方の制度は江戸時代とさほどに変わらない状況が続いた。明治3年12月になり「預所」の廃止が決定された。廃藩以前は、線で囲まれた一定の面を一つの行政単位とする感覚に乏しく、江戸時代以前と同様、村落を新政府や旧大名家が管轄する、という感覚であった。
 おわりに、「預所」とは何かについて、まとめたい。「預所」とは江戸時代、大名家に管理を委ねた幕府の所領であり、委ねられた大名家では負担に思いつつも、年貢の徴収と管轄地域の民政を担当した。明治3年まで「預所」は存続したが、翌年の廃藩置県により、現在の前提となる線で囲まれた行政区画がようやく実現することになった。