3月2023

3月の例会=報告

3月例会

令和5年3月12日(日)

近世越後における情報の伝達と収集―越後に伝わる異国船襲来と北越戊辰戦争の事例―

講師:本会副会長 菅瀬 亮司 氏

<講演要旨>

 文化年間にロシア船がカラフト・千島列島を襲撃した事件が越後に伝わっている。また北越戊辰戦争の様相を三王淵村の庄屋が収集し、記録に残している。これらの事例から、情報や風聞がどのように収集、伝達されたのかを、当時の社会をふまえ考えてみたい。

 「異国船一件ニ付所々之文通併風説控」(Ⅰ)には文化4年に作成された9通の書状があり、文化3年9月から文化4年5月にかけて起こったロシア船襲撃事件(「露冦事件」)についての情報伝達のようすを知ることができる。書状9通は、松前の役所間、津軽藩から庄内藩、村上藩・新発田藩と新潟奉行所、庄内酒田問屋から新潟廻船問屋、会津藩から新潟町会津蔵宿、新潟町年寄と検断の文通のものと当時松前に居て新潟湊に帰帆した早川村の仁助船からの聞き取りであるが、いずれも事件の情報が比較的短時間で越後諸藩や新潟町へ伝達されている。

 次に、三王淵村(燕市・村上領)庄屋田野家旧蔵文書「風聞書三」(Ⅱ)により北越戊辰戦争の情報と風聞をみていく。「風聞書三」の内容を時系列に整理すると、大政奉還の上表、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、長岡に至る戦線、長岡攻防戦・長岡落城前後の記載である。戦線が中越後に延伸するなか、江戸の様子や村上藩主一行の帰国にも記載は及んでいる。さらに、村方・町方に起こった騒動や兵士取立て・食料供出、庄屋の動き、米沢藩の弥彦神社神楽奉納など、内容は幅広い。風聞書の情報には、御達・御触、書状、願書・報告等、勅書・御沙汰、聞き取り、風聞併せて52項目ある。中越後の動向以降、米沢藩による新潟管理、新政府軍の新潟上陸と占領などの新潟攻防戦、同盟軍の長岡城奪還、新政府軍による長岡再落城、村上方面への北進などの記載はない。鳥羽伏見の戦いについては戦場体験者の聞き取りがあり、長岡周辺に迫る戦いの推移や長岡城攻防戦に関する情報・伝聞の把握が最大の関心事であったと思われる。庄屋田野庄助の「世間」を踏まえた風聞書と思われ、いわば三王淵村庄屋がみた北越戊辰戦争ともいえよう。

 Ⅰの史料によって情報が伝達される時間の状況を検討した。この事例だけでは速断できないが、想定外に早く伝わっていると感じた。また村上にもロシアとの争乱が文化4年6月には伝わっている。Ⅱの史料では、情報・風聞の収集範囲や実態を整理し、併せて記載者の情報に対する姿勢や所感にも言及したが、収集した情報や風聞の多量さに驚いた。この背景には情報に接することを可能とした幅広い人脈や交流があったと思われ、収集者の社会における位置、地理的な位置、支配関係における位置等が反映されているとも感じた。近世越後社会における情報のもつ役割は、他の同様な史料を検討することによって補完することができると思われた。

2月の例会=報告

【2月例会】 令和5年2月19日(日)

雑話:「新潟湊に現れた異国船と関屋村」余滴

講師:当会会員  植村 敏秀 氏

<講演要旨>

 令和元年5月例会で報告し『郷土新潟』第59号に掲載された論文の中で、触れることのできなかった点を中心にした、「余滴」ということでの補足報告である。

 今年度から、高校では「歴史総合」という科目が始まり、近現代史を中心に世界史の中での日本史という観点で、ちょうど本報告の時期である幕末の「ペリーの来航」から開始されている。

 明治維新につながるその幕末激動期の中、安政5(1858)年に締結された五か国条約によって新潟は開港地となったが、国際港としては種々問題があり、適否調査が行われることとなった。幕府の調査隊は、同年10月24日(新暦11月29日)に新潟に到着し、早急に河口港である新潟湊の実態調査をして、大型船入港困難等の課題をまとめ上げた。さらに加賀藩、高田藩、桑名藩領寺泊湊、出雲崎湊、尼瀬湊、柏崎湊等における状況把握にも努め、日本海側代替港の検討も行っている。

 安政6年の異国船渡来に対する協力に対し、当時の関屋村庄屋であった齋藤熊之助は褒賞として「褒美金百疋、手当同弐分」をもらったことなどが、「安政6年『関屋村 御用留』」の中で記載されている。さらにこの御用留には、異国船は調査のために突然新潟湊に来航したことが記されており、諸外国の新潟開港に対する危惧、懸念が窺われる。

 同年10月9日(新暦11月3日)には、イギリス船「アクトン(アクティオン)号」と「トウフ(ドーヴ)号」2隻が来航停泊し、乗員が新潟町に上陸した後、翌日出帆している。この際、英国海軍水路部作製の「海図『JAPAN』(略称)」を携行していたが、新たに周辺海域の調査を行っており、その後も佐渡島も含めた実態把握に努めている。フランスはこれに対して独自調査を行っていないが、冬期間の波浪による入港の困難さも相まって、新潟港に対する評価は他国同様に低く、開港は紆余曲折を経て、結局1869年まで待たなければならなかった。

 江戸幕府の鎖国体制下、「関屋村御用留」の中に外国の名前が登場したのは、この安政6(1859)年が最初と考えられる。外国船が隣接する新潟湊に相次いで入津し、度重なる風水害への対応にも追われる中で、派遣された長岡藩の防備要員の駐屯受容にも翻弄された。

 新潟湊に隣り合わせた小村にも国際化の波が押し寄せたわけだが、村人たちはその後10年を経ずしてやってきた戊辰戦争、明治維新という大激動期を、庄屋とともにしぶとくも生き抜いていったのである。