8月例会=報告
8月例会
令和7年8月17日(日)
「近代新潟における歯科医療のあゆみ」
当会会員 日本歯科医史学会会員 広瀬 秀(ひでる) 氏
<講演要旨>
はじめに昭和22年生、新潟下町育ち、歯科医。大学卒業後6年間福島で学生教育と研究生活、日本歯科医史学会入会、遺跡発掘にも参加。帰郷後は父親が新潟郷土史研究会発足時のメンバーであった同会入会、新潟大学考古学研究室の調査員として活動と紹介。
まず古代・中世の歯科医療としては、BC5Cの「ヒポクラテス全集」に歯の出来方、医療について記載があり、紀元前後のケルズスは器具や口腔衛生を説いている。魏志倭人伝に「黒歯国」の記載、大宝・養老律令に「医疾令」の条文がみえる。中世西欧では理髪師による治療や外科医の抜歯例があった。わが国では室町期に口中を治療する口科医・口中医が存在し、天文7(1538)年没の中岡テイの木床義歯の事例があり近世初頭には入れ歯師の生業があったと思われる。
近世になると「救民妙薬集」(文化3,1806年)や「江戸買物独案内」(文政7,1824年)など歯痛薬や民間薬処方の出版も行われた。また松尾芭蕉や小林一茶の歯痛や知覚過敏に悩む作句もあり、江戸期の頭蓋骨からは歯周病の所見がみられ、貝原益軒は「養生訓」で歯の健康維持法を説いている。
新潟における歯科医療の黎明には外国人歯科医師来日の影響がある。その嚆矢はウイリアム・クラーク・イーストレーキで、慶応元(1865)年来日、明治16(1883)年再来日、歯科医院を開業する。明治7年来日の歯科医師メーソン・パーキンスの日本人門下生のなかで山田利充と黒田虎太郎は新潟に縁がある。山田は明治16年東京で開業、同27年に長岡町で開業した当県最古参の歯科医師。黒田は高田町生まれ、明治10年渡英し歯科医学を学び、16年に歯科医術開業試験に合格し政府の開業免許を受け横浜で開業。ほかに新発田町の佐藤家は今日まで9代歯科医師であるが、3代は新発田藩の御抱え大工、4代は普請奉行、5代は口中医、6代が明治30年医術開業歯科試験に合格している。
医師・歯科医師の医療を向上せしめた制度が明治7年の医制であった。従前の怪しげな医術開業者を排除し、国が認可する医術開業試験を受けさせ、開業免許を与える現在の国家試験の前身のようなものである。明治8年に初の医術開業試験が実施された。この時歯科の概念はなく「口中科」での受験であった。同12年に「歯科」の科目が制定された。当県での初めての合格者は長谷川友治である。中蒲根岸村の出身で新潟医学校で学び、明治15年合格、同年末に新潟町で開業、新潟市最古の歯科医師。明治16年には新しい医師免許規則が制定され医術開業歯科試験が実施された。
高山歯科医学院はわが国最古の歯科医学教育機関。設立者高山紀斎は備前岡山藩出身、明治5年アメリカで歯科医学を学ぶ、同11年東京で高山歯科診療所を開業、同23年高山歯科医学院設立、同32年高山歯科医学院の経営を血脇守之助に譲る。同40年東京歯科医学専門学校に昇格、昭和21年東京歯科大学発足に続く。
血脇守之助は明治3年我孫子在出生、慶應義塾入塾、明治23年三條町米北教校の英語教師、同26年高山歯科医学院入学、開業歯科試験合格、高山紀斎から学院経営を継承。血脇守之助は高山歯科医学院学僕の野口英世と石塚三郎を出会わせ、ふたりは生涯の友となる。石塚三郎は明治10年安田村生、同30年高山歯科医学院採用、医術開業歯科試験合格後33年長岡市で開業。地域歯科医師会の設立に尽力、初代新潟県歯科医師会会長に就任。平成13(2001)年に新発田市佐藤泰彦医師によって「石塚三郎日誌及び会計簿」が発見された。終わりにこれからの歯科医療について見解の開陳があった。