5月の例会=報告

5月例会
平成30年5月20日(日)

北方文化博物館と沢海の風景―伊藤家八代の260年―
北方文化博物館長・本会会員 神田 勝郎 氏

〈講演要旨〉
 昭和21年に北方文化博物館が発足し、今年で72周年になる。本日は当館の「営業マン」のような感じでお話ししたい。
 江戸時代のはじめ「相見」と記された史料があるが、正保日本図(1644年)には「澤海」とあり、沢海藩が成立した慶長15年ころには「沢海」地名となっていた。
 沢海藩は新発田藩主溝口秀勝の次男善勝により誕生した藩で1万4千石。四代まで続いたがお家騒動で廃藩となった。旧沢海藩領は一時幕府領となり、宝永4(1707)年から旗本小浜家が支配した。小浜家の御用達商人となった文吉家は、宝暦6(1756)年仙蔵の倅安蔵が文吉家の養子となり中興し、妻のきよとともに蓄財をなし、伊藤家経営の基礎を築いた。そして二代、三代、四代がさらに伊藤家を盤石なものにしていった。
 五代文吉は明治15年邸宅建築のため土木工事に着手。良質の杉材を只見川上流部から購入し、店と茶の間、入母屋二階建の主屋、土蔵門、座敷等を建築し、同20年に完成させた。国語伝習所を卒業した六代文吉は、旧高柳村岡野町の名家村山吉次郎の二女真砂と結婚、三日三晩の披露宴であった。惜しくも彼は同36年33歳の若さで他界した。
 伊藤家は代々信用の厚い金融業者として大口の金融を扱い、巨大地主として成長した家である。昭和19年には1372町歩を所有し、その面積は新潟県第一位であった。
 七代文吉は明治29年生まれ。慶応大学に進学するも中退し、アメリカのペンシルバニア大学へ留学した。卒業後もアメリカで見聞を広め大正14年に帰国した。戦争終結後の昭和20年9月、新潟軍政部民間情報教育部長としてライト中尉が着任、10月に伊藤家を訪れている。このライト中尉と七代文吉がペンシルバニア大学の先輩、後輩という縁から相互理解が得られ、日本初の私立博物館構想が実現した。それが北方文化博物館である。
 ライト中尉は同24年アメリカに帰国したが、八代文吉は当館設立の恩人ライト中尉探しに乗り出し、幸いに同60年アメリカに行きライト中尉と会うことができた。地元紙は「大海に落としたコンタクトレンズを探し出すような奇跡の再会」と報じた。
 アメリカ国立公文書館の憲法通りに所在する女性像の台座には、「遺産」(ヘリテージ)と題して「過去の遺産は将来の稔りをもたらす種子である」と刻まれている。今後も北方文化博物館という「遺産」を広く公開し、あるがままの農村文化を多くの来館者に体験してもらいたいと願っている。