11月の月例会=報告

11月例会
平成24年11月18日

「旧齋藤家別邸の魅力と齋藤家の足跡」
旧齋藤家別邸アートディレクター 横木剛 氏

〈講演要旨〉
 旧齋藤家別邸は豪商齋藤家の四代喜十郎(庫吉、1864~1941年)が大正7年(1918)に造った別荘である。砂丘地形を利用した回遊式庭園と近代和風建築の秀作といわれる開放的な建物は、大正時代の港町であり商都であった新潟の繁栄ぶりを物語る文化遺産である。戦後この別邸は進駐軍の接収を経て、昭和28年加賀田家の所有となり、平成17年に保存運動が市民有志によって起こされ、その運動・支援が実を結び平成21年新潟市が公有化、整備工事等を経て今年の6月から一般公開されることとなった。

 別邸の見どころは、「庭屋一如」の設計思想、自然主義的作風の広大な庭園、贅と嗜好を凝らした近代的でスマートな建物というところであろう。
 また、郷土史的観点から鑑賞する“ツボ”をあげてみるならば、①別邸が建てられた西大畑地区の砂丘が生み出す自然景観や環境―そのすぐれた立地の特性、②別邸が造られた大正前期―日本経済に一番活気のあった時代性、③四代喜十郎は当時の新潟一の財界人で中央政界にも進出―別邸を新潟の迎賓館としての要素を持たせ、また妻ラクの茶道を親しむ場所としたこと、以上の三点であろう。
 この新潟の近代化をリードした齋藤家の繁栄については、二代喜十郎が幕末から明治にかけて廻船業を営み寄生地主として土地を集積し、さらに四代喜十郎が明治から昭和にかけて汽船業や化学工業、銀行業等々様々な事業を展開し、地方財閥としての力を蓄えていったことが考えられる。

 最後の20分間は、齋藤家に残されていた昭和12年頃の16ミリフィルムを鑑賞した。ナンバー1番のシボレーや改築した新潟銀行、新潟飛行場と羽田へのフライトなど、非常に貴重な映像が映し出されている。

なお、11月16日の文化審議会で旧齋藤家別邸庭園を登録記念物とする答申が出されており、近く答申通り告示されることになる。

9月の月例会=報告

9月例会
平成24年9月15日

「琉球王朝文化と田島利三郎翁」
琉球王朝禮楽保存会会長 安仁屋眞昭氏

〈講演要旨〉

琉球王朝は12世紀後半舜天王朝から始まったと考えられる。第二尚氏時代(1470~1879)の尚眞王のころ、国内で謡われていた様々な歌がまとめられていった。「おもろさうし」第1巻の編纂が1531年、第2巻が1613年、第3~22巻が1623年である。「おもろ」は「思い」の表記、祭政一致時代の祝詞や天体讃歌、航海安全の祈り等々を含んだ「古歌謡集」が「おもろさうし」で、古くはメロディを持って謡われた。

「おもろさうし」の管理と儀式や祭礼の「神歌主取(ヌシドウイ)」が置かれた。この役職は明治初年琉球王朝廃朝まで続いた。安仁屋眞刈(安仁屋眞昭氏の曾祖父)が最後の「神歌主取」で12代目であった。現在は「王府おもろ」として5曲のみ伝承されているが、1978年山内盛彬からの伝承者として私が受け継ぎ保存・紹介に努めているところである。

「おもろさうし」をはじめ沖縄・琉球研究の先覚者が新潟県出身の田島利三郎である。1893年沖縄県立尋常中学校の教師として赴任した田島は「おもろさうし」を書写し、関連資料を精力的に収集した。しかし彼は1895年突然解雇されてしまったが研究を続け、集めた資料を教え子の一人伊波普猷に譲り、その後は台湾、中国、朝鮮半島を流浪したと言われている。田島が研究し、残した資料は貴重で、彼の功績は非常に大きい。

「王府おもろ」の一つ、謝名思(ジャナムイ・後の察度王)を讃えた「おもろ」に次の一節がある(安仁屋氏が実際に謡い紹介された)。

――謝名思いが 謝名上原 上て 蹴上げたる露は 露からど 香しや 有る――

謝名思が散策した「謝名上原」は現在の普天間飛行場あたりである。この「謝名上原」(普天間飛行場)が一日も早く返還され、琉球王国の国是であった平和の心を世界に発信する基地になってほしいと願っている。

8月の月例会=報告

8月例会

「『殉節の碑』建立に携わった人びと」
新潟郷土史研究会会員 高橋邦比古氏

《内容要旨》

新潟市の新潟大神宮(中央区西大畑町)には、戊辰戦争中、新潟で戦死した会津藩士の鎮魂碑『殉節之碑』が建っている。この碑は明治23年建立されたものであるが、建立に至るまでには多くの人々の労苦・支援・悲願があった。

建立に先立つ明治17年、戊辰戦争戦死者17回忌法会が新潟市の法音寺で行われた。発起人の津田耕平・佐藤昌平、「祭文」起草者寺田徳裕・寺田徳明、「捧」起草者工藤衛守、鎮魂の詩歌を寄せた工藤張琴、田中小稲等々、多くの人々の協力があった。

明治23年『殉節之碑』が建立された。碑の撰文並びに書は南摩綱紀(明治の教育者)、石工は倉田緑司、そして碑建立の中心者津田耕平・鹿野治郎は翌24年、この紀念碑竣工の大祭典を新潟大神宮で執り行った。この時二人は三條小鍛冶宗近刀をはじめ義捐金名簿、掛物、祭文、詩歌、戦死人名簿を奉納し目録を作成、「永世保存し御祭典の時には御拝殿に陳列し、参拝者の縦覧に供してほしい」と覚書に記した。

『殉節之碑』建立の経緯について、新潟郷土史研究会会員の長井信平・小川チヨ両氏の示教を得て、先の掛物、祭文、捧、目録、覚書等々を確認することができた。碑建立の中心者の一人津田耕平は戊辰戦争後、新潟県本庁第三課地租改正掛等々で活躍、明治24年大祭典後忽然と新潟を去ってしまう。もう一人の中心者鹿野治郎は戊辰戦争後、三戸(斗南藩)から会津へ帰る途中新潟港で足止めにあい新潟で生活、14歳はじめ頃表具師八木錦水に入門、修業に修業を積み名人といわれる。昭和5年72歳で没した。

津田・鹿野二人も含め、碑建立に携わった人々について今後も調査をすすめていきたい。