12月の月例会=報告

12月例会
平成24年12月16日

「地図・空間情報で辿る新潟市域の変容」
新潟郷土史研究会会員 村上桂山氏

〈講演要旨〉
1 中央区天明町をフィールドとした「都市の変容」
1900年代:中川堀沿いに農家が点在(「信濃川河川台帳図」1901)。1925年:沼垂の市街地が拡大、万代町通沿いの宅地化がすすむ。古信濃川以西は宅地化されていない(「新潟市図」)。1945年(終戦時):天明町全域が宅地化される(「米軍写真」1947)。1972~2012年の10年ごとの住宅地図から変化を見ていくと、1980年代(昭和末)に入り都市内部に変化が生じ、駐車場・空家・集合住宅が増加し、人口が流出し万代町商店街の寂れていく様子がみてとれる。2010年代には、商店街・商店の衰退が加速、空き屋が増加し、空洞化が進む。

2 新潟地域の地図の紹介:現在から過去に遡ってみていく。
2050年:新潟市の将来の姿、1970-80年:新潟市都市域の拡張、1964年:新潟地震前後、国体・地震に伴う都市内部の変容、1945年:戦争前後戦争に関係する様々な特徴、1925年:新潟の都市計画により骨格形成、1900年:商業活動の姿商業活動が地図に展開される時代、明治から江戸の姿新潟市が信濃川左岸エリアの頃、1845年:幕府領時代の姿、1849年:長岡藩から幕府領への移行時。
新潟市域の変遷を知る絵図・空間情報としては、天領時代の姿を示す絵図(1845)、地租改正新潟区図(1883か)、新発田連隊地図(1894)、商業家明細図(1896~)、河川台帳図(1901)、都市計画基本図(1926)、新潟港図(1930)、宅地分譲図(1935)、昭和16年以降終戦までの地図、米軍写真(1947)、昭和31年都市計画図、昭和31年代以降の航空写真、昭和40年代以降の住宅地図等が基本となる。

3 まとめ
新潟市域には明治以降多様な地図・空間情報が存在し、これらは郷土の姿を知る際に重要な情報を提供してくれる。様々な地図・空間情報の履歴や節目を分類整理することから、地図の位置取りを明らかにすることができる。地図・空間情報は今後GISを手段として多様な情報表現を行う情報の基盤となる。過去の地図・空間情報が系統的に集約・保管がなされていない状況にあり、重要な課題である。

第26回会津と越後を語る会新潟大会

第26回会津と越後を語る会新潟大会

10月20日(土)、新潟市北区文化会館ホールで「会津と越後を語る会新潟大会」が開催され、400名をこえる参加者があった。新潟郷土史研究会も実行委員会(主催者)の一団体として、大会準備から当日の実施に至るまで積極的に活動・運営を行った。
大会では次のような発表・報告がなされた。

1 新潟大会の開催にあたって
  会津と越後を語る会新潟大会実行委員長 伊藤 善允
2 歓迎のごあいさつ
  新潟市長 篠田 昭
3 講演
会津と東蒲原の近代―日本近代史の中の福島県と新潟県―
  新潟市文化財保護審議会会長  本間 恂一
4 研究発表
・伝承の中に於ける金上盛備
  会津蘆名一族研究会副会長    長谷川慶一郎
・『殉節之碑』建立に携わった人びと
  新潟郷土史研究会事務局長   高橋邦比古
5 歌
ああ津川城―勇将金上盛備伝―
  音楽制作会社D・rect代表    山﨑 至峰

本間恂一氏は、若松県の成立や福島県の成立、そして新潟県の成立など明治初年の地方政治の変動を経て、結果的に明治19年東蒲原郡が新潟県に編入された背景について、若松県の分県運動や福島県庁移転問題、「地方人民(東蒲原郡)」の移管移転への考え、さらに山県有朋内務大臣の指示等々、当時の史料を具体的に紹介しながら詳細に説明された。
長谷川慶一郎氏は、戦国大名蘆名氏の重臣金上盛備について、その人間性とともに、なかでも第3回上洛時でのエピソードや磐梯山裾野の摺上原での合戦など、戦国武将としての「武勇」を紹介、強調された。この発表に続いて、山﨑至峰氏が「ああ津川城―勇将金上盛備伝―」を歌い、会場を盛り上げた。
高橋邦比古氏は、新潟市中央区西大畑町の新潟大神宮に建つ、戊辰戦争の中新潟で戦死した会津藩士の鎮魂碑「殉節之碑」について、その建立に至るまでの苦難や協力、そして多くの人々に支えられながら建立が実現していった経緯を、詳細な資料を映像で提示しながら発表された。
最後に、森田慶一氏より「来年は10月1日(火)に会津で第27回越後と会津を語る会」を開催したい。多くの方々から参加していただきたい。」と挨拶があり、大会は終了した。

11月の月例会=報告

11月例会
平成24年11月18日

「旧齋藤家別邸の魅力と齋藤家の足跡」
旧齋藤家別邸アートディレクター 横木剛 氏

〈講演要旨〉
 旧齋藤家別邸は豪商齋藤家の四代喜十郎(庫吉、1864~1941年)が大正7年(1918)に造った別荘である。砂丘地形を利用した回遊式庭園と近代和風建築の秀作といわれる開放的な建物は、大正時代の港町であり商都であった新潟の繁栄ぶりを物語る文化遺産である。戦後この別邸は進駐軍の接収を経て、昭和28年加賀田家の所有となり、平成17年に保存運動が市民有志によって起こされ、その運動・支援が実を結び平成21年新潟市が公有化、整備工事等を経て今年の6月から一般公開されることとなった。

 別邸の見どころは、「庭屋一如」の設計思想、自然主義的作風の広大な庭園、贅と嗜好を凝らした近代的でスマートな建物というところであろう。
 また、郷土史的観点から鑑賞する“ツボ”をあげてみるならば、①別邸が建てられた西大畑地区の砂丘が生み出す自然景観や環境―そのすぐれた立地の特性、②別邸が造られた大正前期―日本経済に一番活気のあった時代性、③四代喜十郎は当時の新潟一の財界人で中央政界にも進出―別邸を新潟の迎賓館としての要素を持たせ、また妻ラクの茶道を親しむ場所としたこと、以上の三点であろう。
 この新潟の近代化をリードした齋藤家の繁栄については、二代喜十郎が幕末から明治にかけて廻船業を営み寄生地主として土地を集積し、さらに四代喜十郎が明治から昭和にかけて汽船業や化学工業、銀行業等々様々な事業を展開し、地方財閥としての力を蓄えていったことが考えられる。

 最後の20分間は、齋藤家に残されていた昭和12年頃の16ミリフィルムを鑑賞した。ナンバー1番のシボレーや改築した新潟銀行、新潟飛行場と羽田へのフライトなど、非常に貴重な映像が映し出されている。

なお、11月16日の文化審議会で旧齋藤家別邸庭園を登録記念物とする答申が出されており、近く答申通り告示されることになる。

9月の月例会=報告

9月例会
平成24年9月15日

「琉球王朝文化と田島利三郎翁」
琉球王朝禮楽保存会会長 安仁屋眞昭氏

〈講演要旨〉

琉球王朝は12世紀後半舜天王朝から始まったと考えられる。第二尚氏時代(1470~1879)の尚眞王のころ、国内で謡われていた様々な歌がまとめられていった。「おもろさうし」第1巻の編纂が1531年、第2巻が1613年、第3~22巻が1623年である。「おもろ」は「思い」の表記、祭政一致時代の祝詞や天体讃歌、航海安全の祈り等々を含んだ「古歌謡集」が「おもろさうし」で、古くはメロディを持って謡われた。

「おもろさうし」の管理と儀式や祭礼の「神歌主取(ヌシドウイ)」が置かれた。この役職は明治初年琉球王朝廃朝まで続いた。安仁屋眞刈(安仁屋眞昭氏の曾祖父)が最後の「神歌主取」で12代目であった。現在は「王府おもろ」として5曲のみ伝承されているが、1978年山内盛彬からの伝承者として私が受け継ぎ保存・紹介に努めているところである。

「おもろさうし」をはじめ沖縄・琉球研究の先覚者が新潟県出身の田島利三郎である。1893年沖縄県立尋常中学校の教師として赴任した田島は「おもろさうし」を書写し、関連資料を精力的に収集した。しかし彼は1895年突然解雇されてしまったが研究を続け、集めた資料を教え子の一人伊波普猷に譲り、その後は台湾、中国、朝鮮半島を流浪したと言われている。田島が研究し、残した資料は貴重で、彼の功績は非常に大きい。

「王府おもろ」の一つ、謝名思(ジャナムイ・後の察度王)を讃えた「おもろ」に次の一節がある(安仁屋氏が実際に謡い紹介された)。

――謝名思いが 謝名上原 上て 蹴上げたる露は 露からど 香しや 有る――

謝名思が散策した「謝名上原」は現在の普天間飛行場あたりである。この「謝名上原」(普天間飛行場)が一日も早く返還され、琉球王国の国是であった平和の心を世界に発信する基地になってほしいと願っている。

8月の月例会=報告

8月例会

「『殉節の碑』建立に携わった人びと」
新潟郷土史研究会会員 高橋邦比古氏

《内容要旨》

新潟市の新潟大神宮(中央区西大畑町)には、戊辰戦争中、新潟で戦死した会津藩士の鎮魂碑『殉節之碑』が建っている。この碑は明治23年建立されたものであるが、建立に至るまでには多くの人々の労苦・支援・悲願があった。

建立に先立つ明治17年、戊辰戦争戦死者17回忌法会が新潟市の法音寺で行われた。発起人の津田耕平・佐藤昌平、「祭文」起草者寺田徳裕・寺田徳明、「捧」起草者工藤衛守、鎮魂の詩歌を寄せた工藤張琴、田中小稲等々、多くの人々の協力があった。

明治23年『殉節之碑』が建立された。碑の撰文並びに書は南摩綱紀(明治の教育者)、石工は倉田緑司、そして碑建立の中心者津田耕平・鹿野治郎は翌24年、この紀念碑竣工の大祭典を新潟大神宮で執り行った。この時二人は三條小鍛冶宗近刀をはじめ義捐金名簿、掛物、祭文、詩歌、戦死人名簿を奉納し目録を作成、「永世保存し御祭典の時には御拝殿に陳列し、参拝者の縦覧に供してほしい」と覚書に記した。

『殉節之碑』建立の経緯について、新潟郷土史研究会会員の長井信平・小川チヨ両氏の示教を得て、先の掛物、祭文、捧、目録、覚書等々を確認することができた。碑建立の中心者の一人津田耕平は戊辰戦争後、新潟県本庁第三課地租改正掛等々で活躍、明治24年大祭典後忽然と新潟を去ってしまう。もう一人の中心者鹿野治郎は戊辰戦争後、三戸(斗南藩)から会津へ帰る途中新潟港で足止めにあい新潟で生活、14歳はじめ頃表具師八木錦水に入門、修業に修業を積み名人といわれる。昭和5年72歳で没した。

津田・鹿野二人も含め、碑建立に携わった人々について今後も調査をすすめていきたい。