5月の例会=報告

5月例会 

令和4年5月15日(日)

蕗谷虹児と花嫁人形

本会会員  齋藤義明 氏

<講演要旨>

 私が蕗谷虹児作詞「花嫁人形」を調べはじめたきっかけは、イタリア軒別館「蛍」(新潟市中央区西堀通8)前の「花嫁人形」歌碑の発見であった。それ以来種々調査を続け、今日はその結果を報告したい。

 「花嫁人形」は蕗谷虹児(1893~1979)26歳の時に作詞されたとのことである。幼い時の恋人や若くして逝った母の面影を求めて作詞したと言われているが、正式に発表されたのは雑誌『令女界』大正13年2月号が最初である。

 『令女界』掲載に至る経緯については諸説あるが、私は大正年間から昭和初年までの『令女界』の目録を調べ、西条八十、与謝野晶子二氏の雑誌寄稿状況から、西条八十説が正しいのではないかと考えている。また『蒲原』昭和47年1月号の座談会で、「実は西条八十の詩に私が絵を描くことになっていたんですよ。ところが詩がどうしても間に合わないという。じゃぼくが作ろうか・・・」と虹児自身が述べていることからも西条八十説が正しいと思われる。

 この「花嫁人形」は哀愁を帯びたメロディとともに不朽の名曲として多くの人に愛唱されているが、作曲者はヴァイオリニスト兼作曲家杉山長谷夫(1889~1952)である。そして作曲された時期は虹児が欧州留学(大正14年9月)に行く直前であろう。それは虹児が訪欧する約一か月前、楽譜出版社社長が虹児宅に来て、「『花嫁人形』の楽譜の表紙絵を描いてくれたまえ」と、横柄で恩きせがましい態度であったためにことわったと、『蕗谷虹児抒情画集』の中で回想していることからもうかがえる。

 昭和41年11月1日、虹児画業50年を記念し、イタリア軒玄関脇に「花嫁人形」歌碑が建立された。当日の除幕式に蕗谷夫妻も出席したが、虹児は妻龍子に「これで俺の葬式が終わった」ともらしたという。歌碑は現在イタリア軒別館「蛍」前に移設されているが、歌碑碑文は虹児が揮毫した字体を彫ったものである。「あねさん」が「姐さん」に、「きれる」が「濡れる」に変更された碑文となっている。

 なお、蕗谷虹児記念館に展示されている「花嫁」は虹児の代表的な作品の一つであるが、記念館を訪ねた時、「花嫁さんの右目の睫毛の上にうっすらと一滴の涙が白く描かれています」と館員の方から教えてもらった。その部分をよく見るとたしかに涙を確認することができた。画集など印刷された絵では涙を見ることができないので、是非記念館に行って実物を見られることをおすすめしたい。

4月の例会=報告

4月例会

令和4年4月16日(土)

1923年関東大震災の非罹災地における地震観測と地震研究 ― 新潟県新潟測候所の動向を中心に ―

新潟大学人文学部准教授  中村 元 氏

<講演要旨>

 1923(大正12)年9月1日11時58分に発生した関東大震災に関して、翌2日の『新潟新聞』朝刊に報道された、新潟測候所の佐々木靏蔵所長の談話を紹介。地震直後の通信が寸断される中で、震源地を「信濃川の沖合三十里」と推定し、「地震の危険地域」としての「信濃川沿岸一帯」に位置する新潟、という評価が掲載された。情報流通再開後すぐに訂正されたが、災害に際して、地域社会がその地域に在勤する専門家に知見を求め、これに対し専門家がその地域での日頃の観測に即して知見を提供するという、ローカルレベルでの社会と専門家の関係は注目すべきことである。新たな角度からの新潟と関東大震災の関係を検討することは、新たな災害と社会の歴史研究につながる。

 近代日本の地域における地震の近代的観測は、地方測候所が担当しており、新潟測候所は1881(明治14)年、内務省地理局所属の直轄測候所として全国11番目に設置された。その後1914(大正3)年4月に、一等観測所に昇格して一日六回観測から毎時観測へと移行することとなり、同年11月に着任した佐々木所長の時代から刊行された『新潟県気象報告』によって、通時的検討が可能となっていた。

 この『新潟県気象報告』の1917年の記載の中に、「信濃川河口ノ地震帯」が「大震へノ過渡期」に入り警戒すべきとの所見が見られ、それ以降「新潟県下局発地震」と「信濃川地震帯」の活動への注目度が高まり、1923年には「二、三十年後」「三、四十年後」の地震帯下流での突発の可能性が指摘されている。こうした所見は佐々木所長の地震研究の反映と考えられ、著書『大地震予知の研究』(北光社)の中でも、「新潟付近は将来大地震発生の可能性あり」だが、「凡そ今より二、三十年後、或いは其後(四、五十年)に延びるや計り難きも、之れ凡その年数なるべし」と自説を再紹介している。

 関東大震災発生直後の「新潟沖震源説」は訂正されたが、この誤報はさほど問題化されず、逆に『新潟毎日新聞』で特集として取り上げられ、「明治図書館週間デー」でも佐々木が講演し、別企画として「県内歴史地震史料展覧会」が開かれるなど、大震災後の地域社会における地震への関心の高まりが見て取れる。

 佐々木の説は、物理学的因果関係を想定する観点から新潟での大地震を予想したもので、これは地震伝播速度から地盤に働く「ストレーン」(ストレイン=ひずみ)を検出して地震発生を想定する、東北帝国大学理科大学教授日下部四郎太の最新の地震学説に依拠し、新潟での観測によって形成されたものであった。大震災を契機として、地域社会と専門家の新たな関係性を生み出した、非罹災地の好事例として歴史的に評価することができる。

3月の例会=報告

3月例会

令和4年3月19日(土)

有力廻船問屋が起こした不渡り -北前船を揺るがした当銀屋の経営危機-

当会理事 横木 剛氏

<講演要旨>

 前回講演(令和2年2月「廻船問屋当銀屋の成長と北前船」)のおさらいをする。当銀屋は当初与板備前屋の新潟出店で宝暦6(1756)年に廻船問屋加賀屋津右衛門の株を取得して営業を行っている。廻船問屋には三つの柱があり、取引口銭(仲介手数料)と手数料収入・利足収入が収入源、手数料・利足収入とは廻船・船頭の世話や主として米取引の金融利足を指す。そして仲金(税金)納入である。また当銀屋は加賀粟崎の木谷藤右衛門の強大な資金力によって廻船問屋業を拡大させ、湊町や近郷商人からの商品確保や貸付を行った。

 今回幕末の当銀屋の経営内容をみると、嘉永期には年間10万両ほどの取引があった。嘉永3(1850)年暮の突合(損益表)には売口銭約500両(取引高33,000両)、買口銭約1,000両(取引高67,000両)、益金合計6,017両、損金4,900両で1,100両の延金(利益)が出ている。この経営状況を貸借計算でみると、借(資産)項目では貸付金約8,500両、古貸付金が8,000両、俵物蔵入帳取替が約21,500両、有り金約6,300両など。貸(負債・資本)では先祖からの譲金10,000両、預り金(北前船などからの預り金)16,900両、延金(利益)2,700両などとなり、資産合計49,000両で貸借計算が一致している。

 利益の差が異なるのは、貸借計算の古貸付金は回収見込みのないいわば貸倒金でありこれが資産に計上されているためである。古貸付金は天保期決算で1,200両と初めて現れ、幕末期には1万両までに膨らんでいる。一方、嘉永8年の決算では当銀屋の現金は800両ほどに減っている。この不良債権とともに高崎藩一の木戸陣屋・長岡藩・新潟奉行など領主層への融資、長岡藩の能登黒島の廻船主からの資金融通の肩代わりも重なっている。

 ここで当銀屋と能登黒島の北前船船主との取引紛争が起こった。慶応4(1868)年新潟湊は戊辰戦争の戦場となり、信濃川の洪水による凶作など商業取引が困難となり、翌春の米積出しも期待できず、廻船は新潟湊以外に向かった。同年12月能登黒島の廻船主14名が加賀藩物産方に新潟当銀屋との不差引で商売に差支え、資金1万両の援助を歎願した。その中心の角海家角屋孫左衛門は700石積廻船4艘を所持、当銀屋最大の取引相手であった。角屋孫左衛門は当銀屋の負債(5600両)返済を分割し、明治3(1870)年には2万両の資金を援助、当銀屋は担保として家財や五十嵐浚明の屏風や円山応挙の掛軸等美術品を差し入れている。やがて当銀屋は業務を縮小し、債務は漆屋(嶋吉次郎)に引き継がれていく。

 近世の廻船問屋についてこれまで漠然としたイメージで語られていたが、経営の中核は廻船の商品売買の仲介である。その金融活動は北前船から廻船問屋へ、そして湊町商人へと流れていくことがわかった。この流れがうまく廻らないと廻船問屋も窮地に陥り、北前船の資金を取り込んだりして廃業にもつながっていく。当銀屋が新潟湊で問屋株を取得して開業したことと衰退していった理由や背景の類似性がみられる。

1月の例会=報告

1月例会
令和4年1月15日(土)

お雇い英語教師キング暗傷事件-150年目の検証
国立歴史民俗博物館プロジェクト研究員・当会会員 青柳正俊氏

<講演要旨>
 明治4年4月25日未明、新潟県雇用の英語教師エドワード・キング(イギリス人)が宿舎で就寝中に襲われ負傷した。命に別状はなかったものの犯人は逃走し、その後の大規模な捜索にも関わらず事件は未解決に終わった。明治維新後まもない新潟を揺るがしたこの事件について、事件発生から150年を経た今日の視点からその全体像を検証したい。
 これまでキング事件を扱った叙述史として『新潟古老雑話』、『新潟市史』、『新潟県史』などがあるが、事件当時に巷間で広まったという「事件は被害者キングによる狂言ではないか」との流言が殊更に紹介されてきた。また、地方史の範囲内で事件が叙述されてきた。そのため、新潟と直接関係のない事柄に触れられることは少なく、全体像が把握されていない。そこで、『稿本新潟縣史』と外交史料館「新潟県雇英吉国人「キング」兇徒ノ為負傷一件」及びイギリス外務省文書に依拠し、検証したい。
 本日の焦点は、①事件の現場の実情はどうであったか、②事件の動機はどう推測されたか、③新潟を離れてからのキングは何をしたかの3点である。事件の経過を追ってみる。キングが寄宿先の正福寺で就寝中、何者かが寝室に入り込み、刀によってキングに切り掛かり、キングは頭部・両腕手に数ヶ所の傷を負った。キングが大声で隣室の塾生を呼ぶと、犯人は逃げ去った。塾生が各所に報知し、犯人捜索並びにキングの治療ととともに、東京への報知が行われた。東京へは4月30日夜に新潟からの急報が届いた。日本政府は5月1日に朝議を開き、嵯峨大納言・副島参議らがイギリス公使館を訪問し、アダムズ代理公使に遺憾の意を伝えた。並行して太政官達が発せられ、事件捜索が始まった。
 その後事件捜索の手掛かりはつかめなかった。キングの治療は竹山屯・梛野謙秀らが行った。5月に東京から派遣されたイギリス人医師ウィーラ―の報告によると、左手前腕は壊疽状態にあったが、治療により最後には椅子に座ることができるほど回復したという。5月24日には太政官の林厚徳少弁が来県し、キングとトゥループ領事と面談、平松知事からの報告も得た。林少弁の帰京後、キングの新潟引き払いが決定した。これはキング本人の希望によるものであった。
 一方、犯人についての手掛かりはなく、明治3年11月23日東京で起こった攘夷浪士によるイギリス人教師2名に重傷を負わせたダラス・リング事件の余韻や私怨動機の認識もあったが、日本政府・イギリス側双方とも表向きには「物取り動機から生じた犯行」という理解に傾斜していった。
 傷の回復したキングは6月25日に新潟を出立し7月11日に東京に到着した。放縦や悪行も目立ったキングへは日本政府から手当金とともに、1500両を支給した。その後の事件関連記述は途絶するが、キング本人は東京築地ホテルに滞在後、耐恒学舎の英語教師に雇用されるものの給料月額30円という厳しい雇用条件であり、わずか1か月で雇用打ち切りとなっている。

12月の例会=報告

12月例会
令和3年12月19日(日)

三条実美のもとにのこされた大河津分水関係文書-明治2年の分水鑿割計画をめぐって
東京大学史料編纂所学術支援専門職員  杉山 巖 氏

<講演要旨>
 『信濃川鑿割分水一件書類』(宮内庁宮内公文書館所蔵)は、大河津分水工事に関わる明治2(1869)年の原文書5通が綴じ込められ製本された史料である。その一部が『新潟県史 資料編13』に掲載されているが、それは『大日本維新史料稿本』所収の写しから載録されたものである。私はかねがね原文書の所在について心掛けていたが、宮内庁宮内公文書館での原文書閲覧・調査の機会を得ることができた。本日はこの5通の文書の性格や伝来についてお話ししたい。
 5通の文書は次のようなものである。
文書1 明治2年7月 「越後府信濃川分水鑿割願写」
文書2 同年7月18日「越後府権判事坂田潔伺」
文書3 同年7月 「民部官伺」
文書4 同年9月 「越後府知事壬生基修上表」
文書5 同年 「民部省見込書」
 信濃川の洪水は古くから越後の民を苦しめており、越後府はその水害を防止したいと考えた。だが分水工事にかかる経費は試算によると160万両であり、越後府はその捻出案として越後府に入る5ヶ年分の税金を使用したいと新政府に願い出た(文書1)。
 しかし新政府からの返答はなかなか来なかった。そのため越後府権判事坂田潔(旧高鍋藩士)は新政府に対し速やかな決定を求めた(文書2)。新政府の民部官では分水開鑿は必要であると考えたものの、その経費として5ヶ年分の税を越後府に委任することはできないと考えた。会計官も同じ考えで、民部官と会計官との合意による分水工事不許可の決定が下された(3文書)。
 この決定を遺憾として越後府知事壬生基修は自ら上京し、右大臣三条実美に知事辞職願を提出した(文書4)。分水工事不許可の決定が下され知事として職務を続けることができないという考えであった。この壬生の辞職願は漢文体で当時の公文書の文体とは違っており、壬生自身が作成したものではなかった。作成者は旧白根市出身、漢学者・歴史学者星野恒である。壬生とのつながりとともに彼の回想記から判明できた。不許可の決定を下した新政府は越後府に「これまでの治水・防水にさらに努める」ように促した(文書5)。
 この5通の文書が宮内庁に伝来した背景は、三条実美の年譜を編纂するため「三条公行実編輯掛」が設けられ、同掛が原文書そのものを収集していたためである。そのためこの5通の原文書もそのまま製本され「三条公行実編輯掛旧蔵本」のうちの一つとして伝来したものである。分水開鑿が現実の課題として動き出した当初の関連文書であり、第1次分水工事の開始期の状況がよくわかる史料と言えよう。

11月の例会=報告

11月例会
令和3年11月20日(土)

高野山清浄心院「越後過去名簿」に記されている「氏名」と「逆」について
新潟郷土史研究会会員  山上 卓夫 氏

<講演要旨>
 真言宗空海(弘法大師)によって創建された日本の一大霊場高野山、その清浄心院(宿坊を経営)にある「越後過去名簿」より、上杉氏時代の越後とのつながりとその実態を探る。
 当時の「高野僧」は「取次」(地方の寺院など)を拠点にしながら、地方を回って依頼を受けて供養料を得ることも多かった。「越後過去名簿」に残されているその記録の中には、大永8(1528)年に新潟新津屋四良衛門と同坂内新兵衛の身内の供養依頼が見える。また天文10(1541)年には、府中(直江津)の長尾為景(越後守護代)供養記録があり、為景死亡推定年が従来と異なる可能性も読み取ることができる。なお、その翌年には娘道五の供養依頼もあわせて記録されている。
 そして、上杉氏-長尾氏のもとに連なる、色部氏、水原氏、新発田氏、安田氏といった国人領主層からの供養依頼、さらにその輩下の、例えば安田氏の田那部、高山、石塚、渡辺といった小領主(村殿)からの依頼記録も残っており、高野山とつながる越後における広域でのまとまりを窺うことができる。実際安田氏は、上杉家臣団の中でも相応の軍役を担う重臣として仕え、その輩下も「軍役衆」としてその中に組み込まれている。また「岩船衆」であった鈴木新右衛門や須貝藤左衛門が、生前供養である「逆」(逆修)を依頼していた記録が残っており、色部氏支配下地域においてもそのつながりが確認できる。
 さらに、上田長尾氏の元々の拠点「樺沢」(旧塩沢町)に由縁のある、宮島氏、田中氏親族の供養が、天文4(1535)年に依頼された記録も残されている。この宮島氏らはのちに、上杉景勝によって取り立てられた家臣団である「上田衆」として、越後・佐渡全域に派遣されて支配力強化の一翼を担うことになる。文禄3(1594)年に、宮島氏(三河守)は栃尾から新発田へと、黒金氏(安芸守)は佐渡羽茂へと派遣されていることが、「定納員数目録」から確認される。
 この「越後過去名簿」には合計1160件(含、年不明51件)が記され、うち生前供養「逆」の記載が223件(含、年不明2件)ある。他国の「供養帳」などと比してもこの「逆」の割合は決して高くなく、中世においては「擬死再生(よみがえり)」の儀式によって、幸福が来て寿命を長くするという信仰が広くあったものと考えられる。
 こうした中で、僧侶へ依頼する供養だけではなく、「良(入)阿弥陀仏」などの号を刻んだ「板碑」を造立することも行われていた。しかしその際も、経済的な差異によって石に墨で書くだけ、又はただ石を置くだけという階層が大部分であったことを、郷土史を勉強する者として見通すことが大切である。

9月の例会=報告

9月例会
令和3年9月19日(日)

「郷土のことばを考える 方言でココロ・カラダ・アタマを活性化」
当会会員 大田朋子 氏

<講演要旨>
 「方言とは郷土の宝」と考え、郷土のことばを再発見しながらことばのもつ心理的・身体的な効用を考え、認知症の予防ができるかもしれない方言についてお話しする。
 新潟県の概形を地図に表してみると日本列島に似ている。ことばの東西の分岐を考えるとフォッサマグナにあるのではないか。例えばお正月に食べる丸餅と角餅の分布をみるとフォッサマグナの東は角餅、西は丸餅。その餅を焼き餅にするのは東、煮餅にするのは西、但し新潟の海岸部と佐渡の一部は煮餅。直江津に群馬から嫁いだ女性が正月の餅の食べ方を姑に聞いたら「やかんでにらんだ」と答えた。嫁はヤカンで煮た、この誤解が嫁と姑を接近させたというエピソードが残っている。灯油ポリタンクの色は赤色の東、青色の西。昆布巻は関東の鰊、西日本の鮭の傾向がある。
 ことばのアクセントについてもイス・クツ・ウサギなど東と西ではアクセントの違いがある。例えば「セナカ」のアクセントはセを強調、ナを強調、強調なし、の三つの形があるのは新潟県のみで、フォッサマグナの境にあることで東西の言語の複雑性もみられる。柳田国男は新潟県の複雑性にことばの調査を中断したといわれている。
 方言を使うことで心や身体に効用がみられることがある。介護施設で体操をする際に動作の指示を新潟弁で話したら参加者の関心が強く、身体を動かすことに効果があった(該当ビデオとして新潟医療福祉大学作成のラジオ体操第一を視聴)。その先鞭は東北大地震後に東北弁で流したラジオ体操の有効実証があった。笑いはNK細胞にかかわり、方言を使った子供と高齢者の交流は互いの心を開き、場を和ませる効用があった。
 「たくさんあること」表す方言には、いっぺ、いっぺこと、どっつり、ふっとつなど多々ある。2019年に本県で開催された第34回国民文化祭にいがたは、「文化のT字路~西と東が出会う新潟~」がテーマであったが、その大会に本県の歴史的背景と文化的多様性を念頭に置いた「ふっとつ」の方言が使用された。
 高齢者のなかには、昔の記憶、ふるさとや郷土の話、ふるさとの方言、同級会の話などを何度でも繰り返す傾向もみられるが、話し手に同感、共感することが、本人の記憶を想起させ脳を活性化させるという。方言も一つの医療ツールの役割を果たしていることがある。方言の医療、福祉への活用を検討することなども今後考えていただきたい。アクセントもその地域の言い方を尊重し、方言は古くて恥ずかしいものではなく、人を活性化させるものでもあるという認識が大切なのではないか。皆さんから方言に関する情報をお寄せいただきたい。
(最後にラジオ体操のみんなの体操のビデオを見ながら、参加者は着座で身体をほぐす)

8月の例会=報告

8月例会
令和3年8月21日(土)

村の教育からの問い~旧佐渡郡羽茂村全村教育~
前佐渡市立南佐渡中学校長 知本康悟 氏

<講演要旨>
 かつては「村を育てる教育」が行われていたが、現在は「村を捨てる教育」となってしまっているのではないか。戦前は農業を中心とする第1次産業就業率が高く、それに対応した「村里の教育」が行われていた。「村里の教育」とは、家と村を担う一人前の良き村人を育てる教育であり、「地域(村)の子どもは地域(村)で育てる」という姿勢に基づいている。これに対し「学校教育」とは、近代国家の形成と工業化を担う人材(労働者・兵士)を育てる教育である。「学校教育」により得たものも多いが、なくしたものもある。学校教育と地域教育が一体となり「地域社会に、人間形成のための新しい共同の関係をどうつくるのか」が課題となる。そのヒントを、日本社会と地域と教育の転換期である1930年代から1950年代の羽茂村の地域と教育の歩みに探ってみたい。
 この期間を3つに分けてみる。まず第1期は1930年から1945年であり、戦争の時代の「村おこし」の時期であった。この時期には、農山漁村経済更生運動の中で、柿の特産品化とともに村立羽茂農学校の設立という二本柱が立てられ、以後「柿づくりは人づくり」「村づくりは人づくり」という「村おこし」の考えが羽茂村の中に浸透していった。
 第2期は1945年から1950年代前半であり、戦後羽茂村の地域文化運動の時期であった。1945年に歌人藤川忠治が東京から帰郷し、『歌と評論』が復刊された。これを起点に歌会から羽茂村文化会などの地域文化運動が生まれていく。翌1946年には酒川哲保が京都から帰郷し、羽茂村夏期大学が開催されるようになる。地域文化運動には戦地から帰った羽茂農学校の卒業生たちが集い、夏期大学には藤崎盛一や糸賀一雄、諸橋轍次、羽仁もと子、奥むめおをはじめ、一流の講師陣が集った。
 第3期は1950年代半ばから1960年であり、羽茂村全村教育が行われた時期である。昭和29年に村内五か村が連合し、小中高一貫の教育を計画し、さらに幼児及び一般成人をも加えて全村教育をめざして出発した。教員育成のために村で立ち上げた内地留学制度、子どもを理解する手始めとしての精神衛生研究会の発足、村費教員の雇用など、先駆的な制度が進められた。こうした動きは母親の学びへと展開した。母の会が立ちあげられ、母の会読書会へ、さらに幼・小・中・高母の会研修会へと発展していった。これは地域に根ざした教育活動であり、30年間継続したのである。こうした「村つくりの教育」に指導的な役割を果たしたのが酒川哲保であり、村を育てる学びの共同体という彼の考え方は羽茂町長となった庵原健に継承され、その実践は民俗学者宮本常一に絶賛されるに至る。
 以上とりあげた羽茂村の教育からの問いへの答えとして、「村つくりの教育」に学び、主体性をもった「村を育てる学力」を目指して取り組む必要があるのではないか。

7月の例会=報告

7月例会

令和3年7月17日(土)
「川・街・港 変わりゆく風景」展を観る
新潟市歴史博物館学芸員 藍野かおり 氏

<講演要旨>
 今回の「川・街・港 変わりゆく風景」展は、アマチュアカメラマンの桜井進一氏による作品展であり、同時に信濃川を軸に、川・街・港がどのように変わってきたのかをテーマとした展覧会である。
 現在の新潟駅が旧新潟駅(流作場)から移転したのは、白新線の計画とのかかわりが強い。白山駅と新発田駅を結ぶ白新線の計画は昭和14年からあったが、戦争中で中断、戦後の昭和31年開通をみるに至った。白新線の開通とともに新新潟駅の建設が同31年末に始まり、同33年4月29日に完工式が挙行された。新新潟駅は緑色の2階鉄筋コンクリート建て、ホームは4面、食堂など地階の名店デパートが開店した。駅前の東大通りの道幅は50m、緑地帯を設け周辺は耐火建築のみ許可、電柱を地下化し美化と防火対策を兼ね備えた街をめざした。同36年頃から帝石ビルやリッカーミシンビル、NHK新潟放送局が建ち始め、駅前の風景は大きく変貌していった。
 万代周辺は新潟交通の関連施設が多く存在していたが、戦後のエネルギー不足を解消するため天然ガスの採掘が行われ、ガス井戸が25基もあった。しかし天然ガスの採掘を原因とする地盤沈下が顕著となり、同34年から規制が強化された。
 万代周辺の変化を決定づけたのは同39年の新潟地震であった。新潟交通の各施設は壊滅的被害を受け、老朽化した施設の建て替えを余儀なくされた。同時に経営の多角化が検討され、同40年代新しい繁華街として万代シティが誕生、バスターミナル、ダイエー新潟店、万代シルバーホテルなどが建設され、万代周辺が新潟市の一大中心街になっていった。
 戦時中、輸送力増強のため万代島に桟橋などが作られたが、戦争末期新潟港は機雷封鎖を受け機能不全に陥った。戦後の同27年ようやく安全宣言が出され、近海・北洋を含めた一大水産基地として万代島対岸に水産物揚場が建設された。それに伴い万代駅が貨物集約駅として完成し、また信濃川の土砂が溜らないよう導流堤が作られた。その後石油荷役の設備などもできたが、新潟地震の影響、そしてその復旧工事などで新潟港の景観は著しく変化した。同時に東港が造られ、関屋分水が完成し、新潟港の機能はより効率的な面から見直しがなされるようになっていった。
 以上、新潟駅・万代周辺・新潟港についてその変化を紹介してみたが、展示室で写真を見ながら当時の状況を感じていただければありがたい。
(講演終了後、藍野かおり、桜井進一両氏による解説のもと、観覧を行った)

5月の例会=報告

5月例会
令和3年5月15日(土)

五泉市新潟大学農学部村松ステーションにおける旧陸軍関連施設跡の発掘調査成果について
新潟大学人文学部助教 清水 香 氏

<講演要旨>
 文化庁の調査では毎年9,000件の発掘がある。発掘することは遺跡を破壊することも意味するため、復元できる記録を残すことが肝要で将来的に分析できる様にしなければならない。今回は2019・2020年に新潟大学考古学研究室で実施した、新潟大学農学部村松ステーションにおける発掘調査で発見された戦争遺跡及び学生の取り組みについて紹介する。
 五泉市の新潟大学農学部村松ステーションは明治30年以降、旧陸軍の村松練兵場及び射撃場として知られている。中村元氏は戦争遺跡としての性格を堀り下げ、旧軍施設と地域社会の関係を考察、地域貢献の上でも歴史的価値を確認することの重要性を指摘された(「新潟大学農学部附属フィールド科学教育研究センター村松ステーションに残る旧陸軍施設関連資料の基礎的研究」『資料学研究』14、2017)。
 これまで、村松ステーションにおいて本格的な踏査および発掘調査は実施されておらず、戦争遺跡としての位置づけを行う目的で発掘調査を行った。調査対象は塹壕跡と伝えられる堀・溝状遺構、同樹林内で確認された近現代遺物の集積、圃場にあったとされる軍用飛行場滑走路及び塹壕跡の確認である。
本遺跡は村松ステーション内に所在し、周辺には縄文時代後期末から晩期の遺跡が点在している。地層の基本層序は耕作土、黒褐色土層(黒ボク)、黄褐色土層(ローム)、黄褐色土と砂礫の混合土層である。樹林内の塹壕跡と伝えられる堀・溝状遺構から人為的な掘削の痕跡を確認、聞き取り内容とも一致することから塹壕跡と推測される。樹林中の遺物の集積は統制陶器(昭和15~21年)、歯磨き粉・化粧品などで昭和10~30年代とほぼ特定される。戦後の廃棄であり、医療廃棄物を含めはどこから運ばれたかという課題が残る。なお戦争に関する遺物は確認されていない。本県の秘匿飛行場(滑走路)には、西区旧山田島飛行場、南魚沼市の八色原飛行場などがあるが、村松飛行場は昭和20年6月にほぼ完成、約30町歩の広さがあり、重機を導入し学徒動員や勤労奉仕で造成された。圃場トレンチに軍用飛行場滑走路と考えられる痕跡を確認した。滑走路は塹壕を掘削して造成されたものと思われ、造成土と推測される黒色土層に挟まれる砂礫は近隣の河川から運ばれ、土を固め、落ち込みやぬかるみを防ぐ目的で利用された可能性がある。圃場には河原から砂利を運びまかれたものと思われる。
 戦争遺跡の発掘は、地域社会に残る記憶を地域の資料と共に記録することで後世に伝えることができ、また戦争の痕跡を後世に遺し地域に還元する活動をとおして文化財への相互理解を深めることができる。今後は探知機による地層の分析、地形図や航空写真による比較検討も行う。本県における本格的な戦争遺跡の発掘調査が周知されることで、近現代遺跡の再評価につながることを期待したい。