2月の例会=報告

【2月例会】 令和5年2月19日(日)

雑話:「新潟湊に現れた異国船と関屋村」余滴

講師:当会会員  植村 敏秀 氏

<講演要旨>

 令和元年5月例会で報告し『郷土新潟』第59号に掲載された論文の中で、触れることのできなかった点を中心にした、「余滴」ということでの補足報告である。

 今年度から、高校では「歴史総合」という科目が始まり、近現代史を中心に世界史の中での日本史という観点で、ちょうど本報告の時期である幕末の「ペリーの来航」から開始されている。

 明治維新につながるその幕末激動期の中、安政5(1858)年に締結された五か国条約によって新潟は開港地となったが、国際港としては種々問題があり、適否調査が行われることとなった。幕府の調査隊は、同年10月24日(新暦11月29日)に新潟に到着し、早急に河口港である新潟湊の実態調査をして、大型船入港困難等の課題をまとめ上げた。さらに加賀藩、高田藩、桑名藩領寺泊湊、出雲崎湊、尼瀬湊、柏崎湊等における状況把握にも努め、日本海側代替港の検討も行っている。

 安政6年の異国船渡来に対する協力に対し、当時の関屋村庄屋であった齋藤熊之助は褒賞として「褒美金百疋、手当同弐分」をもらったことなどが、「安政6年『関屋村 御用留』」の中で記載されている。さらにこの御用留には、異国船は調査のために突然新潟湊に来航したことが記されており、諸外国の新潟開港に対する危惧、懸念が窺われる。

 同年10月9日(新暦11月3日)には、イギリス船「アクトン(アクティオン)号」と「トウフ(ドーヴ)号」2隻が来航停泊し、乗員が新潟町に上陸した後、翌日出帆している。この際、英国海軍水路部作製の「海図『JAPAN』(略称)」を携行していたが、新たに周辺海域の調査を行っており、その後も佐渡島も含めた実態把握に努めている。フランスはこれに対して独自調査を行っていないが、冬期間の波浪による入港の困難さも相まって、新潟港に対する評価は他国同様に低く、開港は紆余曲折を経て、結局1869年まで待たなければならなかった。

 江戸幕府の鎖国体制下、「関屋村御用留」の中に外国の名前が登場したのは、この安政6(1859)年が最初と考えられる。外国船が隣接する新潟湊に相次いで入津し、度重なる風水害への対応にも追われる中で、派遣された長岡藩の防備要員の駐屯受容にも翻弄された。

 新潟湊に隣り合わせた小村にも国際化の波が押し寄せたわけだが、村人たちはその後10年を経ずしてやってきた戊辰戦争、明治維新という大激動期を、庄屋とともにしぶとくも生き抜いていったのである。