7月の例会=報告

令和5年7月23日(日)

「川村修就と新潟」展について

新潟市歴史博物館学芸員 田嶋悠佑 氏

<講演要旨>

初代新潟奉行を務めたのが川村修就であるが、戦前から風間正太郎氏の研究や藤田福太郎らによる『新潟市史』編さんで川村家との接触があり、同家所蔵古文書についても触れられてきた。川村家の資料は国立国会図書館に寄託されていたが、昭和51年(1976)に新潟市郷土資料館と川上喜八郎市長の依頼により当市への寄贈が実現した。

川村家は代々江戸幕府の御庭番を務めていた。天保改革において綱紀粛正や海防にも力を尽くした。御庭番に焦点を当てた研究に小松重男氏と深井雅海氏の著作があり、天保改革に焦点を当てたものに伊東祐之氏と中野三義氏の論著がある。

明治38年(1905)1月の『東北日報』に風間正太郎氏の「川村清兵衛」という連載があり、川村家の文書を見て記事を書いている。この中で「蜑の手振り」など注目すべき資料をいくつか取り上げている。内容は古いが「川村修就」イメージ形成の歴史にとって重要である。明治の時点で、どういう資料に関心が向けられていたかという点でも興味深い。

これまでの新潟市郷土資料館、みなとぴあの企画展では川村修就の新潟での事蹟を中心に人柄や天保改革全般、海防に焦点を当ててきた。今回は広く内容を取扱い、これまで展示できなかった資料も積極的に出すなど、資料の面白さを軸にしている。

次に、今回の展示の注目資料を紹介する。新出のものとして、沢野家文書がある。これは、本町十七軒町加賀屋旧蔵の資料である。旧『新潟市史』にも言及があり、東大史料編纂所で写本も作られていたが、原本と考えられる資料が見つかったことで、意味が通るようになった。面白いと思った資料に、嘉永3年(1850)の川村修就の随筆「鳳木の記」がある。「鳳木」は文化15年(1818)から文政3年(1820)の内野新川掘削の際に水底から出土したものとされる。外観が「鳳のかしらによくもにかよひて」いたので修就が「鳳木」と名付けた。内野新川掘削により水害が減り、世が平穏になった印として「鳳木」が出現したと修就は解釈し、この工事を修就は高く評価している。次に、「嘉永元年戊申四月廿四日夕七時越後国ニテ望所白気ノ図」を紹介する。これは、嘉永元年(1848)に、修就が新潟で見た不思議な虹について詳しい者に問い合わせた記録である。修就は「白気」に関心を持ち、天変地異の予兆ではないかと幕府天文方の山路弥左衛門に問い合わせたが、山路はこの現象と災害との関係を否定している。次に紹介するのは明治7年(1874)の山際藤三郎等書簡である。維新後、東京にいた修就に対し、新潟の住人山際藤三郎らが出した手紙で、隠退後の修就の様子がわかる。みなとぴあには、このほかにも川村修就の子孫が新潟市へ寄贈した貴重な資料が保存されている。今回の展示では川村家の資料をイラスト使用などの工夫をし、わかりやすく紹介する。〈この後、展示解説が行われた。〉