4月の例会=報告

令和6年4月27日(土)

ドイツ史料が描く新潟開港と戊辰戦争

当会会員 青柳 正俊 氏

<講演要旨>

 新潟は開港五港の一つとして外国に注目された町であった。戊辰戦争期の新潟開港とドイツとの関わりを、新たにドイツの公文書によって考えていく。内戦の最中に開港日を迎えた新潟をめぐる国際関係は、新政府を後押しするイギリスとこれに対峙するプロイセン(北ドイツ連邦、後のドイツ帝国、以下ドイツ)が存在感を発揮している。イタリアは自国産業に不可欠の蚕種(産卵紙)の輸入継続を望み列強に支援を求め、ドイツはこの問題を共有していないのに列強協調路線を離脱、列藩同盟側の軍事補給基地となった新潟との関係など、どこまで確認できるかを繙きたい。

 近年はドイツ公文書館の日本関係史料がデジタル画像化されウェブ上で公開された。従来の新潟開港は英・米・仏列強3国の内情によって分析されてきたが、今回はブラント(ドイツ駐日代理公使)からビスマルク(ドイツ首相兼外相)への報告やブラントへの指示文書、往復文書などを解読、分析したものである。

 ブラントは1863年日独修好通商条約発効と共に日本領事として横浜着任、1867年一時帰国の後ドイツ代理公使として帰任、1871年駐日ドイツ帝国公使、1875年駐清国公使として転任した。

 研究成果の一つとしてドイツによる蝦夷地の植民地化計画をみると、1868/7/31ブラントはビスマルクに「会津・庄内から蝦夷地・日本西海岸の領地をドイツに売却したい」旨の報告、本国は「英米の動きが事実であれば交渉を開始してよい」と指示。さらにブラントは同年11/12~13にビスマルクに「蝦夷地を借款と引替に99年担保に出すとの委任状を持参」と説明し、本国の判断を求めている。最終的には本国政府が蝦夷地植民地化に動くことはなかった。

 次に新潟開港、戊辰戦争期、局外中立をめぐる本国訓令の三つのステップに分けてブラント報告と本国の対応をみよう。ブラントは新潟開港は予定通りに行くと報告、イタリアは蚕種確保のため新潟に入港し、ブラントは友好関係を正当化する行動と報告している。ビスマルクは列強の不一致を憂慮するが、ブラントの取った姿勢に同意を与えている。1868/9/11新政府軍は新潟港封鎖を宣言し新潟を占領、外国商人は一掃された。この間の動向について全体としてドイツ史料には不可解な面があり、更に分析する必要がある。

 戊辰戦争についてブラントは当初仏ロッシュの大君に同一化の行動を問題視、さらに英のミカド謁見や新政府承認、新潟開港問題での対応の相違、東北戦争の米沢・会津の降伏後での内戦継続などを批判している。また新政府は列強代表に局外中立の撤廃を迫ったが、英パークスの行動は列強協調と局外中立に反するとビスマルクに繰り返し報告した。

 本国特にビスマルクからブラントへの訓令をみると、ブラントは各国代表と協調し局外中立宣言を行い、自国民・自国領事への警告を出した。本国の基本姿勢は、内乱に対する完全な中立と団結は日本との関係の発展を保証する、この方針で各国代表との対処を要請した。本官(ビスマルク)はミカドの招待に応ずる是非を予断できないが、内戦の一方に組みしているとみられることを避けるべきと訓令している。一方パークスは英枢密院勅令に基づき、開港地でのすべての商取引は中立宣言の範疇外とした。ブラントも同様に軌道修正を試みるが、本国は利益を優先させる商業者による中立違反を助長しかねないとして局外中立をへの働きかけを訓令した。しかし英パークス公認で英船舶による新政府軍兵員輸送を認識したため、ブラントのそれに追随する方針転換に対しては本国も全面的に是認した。ビスマルクは英パークスの党派的な姿勢を認識し、パークスに対する反感をブラントと共有していた。

 現段階のまとめではビスマルクは内戦の一方に荷担する非を説いていた。ブラントは英パークスの行動の反作用として反新政府的な姿勢を強めていたが、やがて列強の大勢につき本国政府の是認を請けている。新潟開港の意図はイタリアの支援、自国商人の通商活動の促進、戊辰戦争をめぐる英パークスへの対抗にあった。