2月の月例会=報告

2月例会
平成25年2月17日

古文書講座「天保期の新潟町を読む」 2
県立文書館文書調査員 菅瀬亮司氏

〈講演要旨〉
昨年の2月例会に引き続き「町方明細帳」を読みながら、天保期の新潟町について触れてみたい。この史料は天保14(1843)年新潟町が長岡領から幕府領に上知される際、その引継文書として作成されたもので、当時の新潟町の様子が具体的にわかる貴重な史料である。
 まず町会所の年中行事についてであるが、正月元日町役人一同奉行所へ年頭挨拶、3日・5日の両日検断・年寄が町中を年始に廻り、肝煎は各自担当組の町内を廻っている。8日が町会所の御用始、町役人一同裏附上下で出勤、諸職年行司(同業組合の総代)が申し付けられた。22日から定例の式日、式日とは検断・町老以下が町会所に出勤する日のことで、2・6・9の日であった。式日以外は交替で検断1人町老1~2人が町会所に詰め町政を執って月番制であった。
 6月12日より18日迄鎮守白山宮の祭礼、7月7日湊祭で住吉神楽が6日に白山宮より御旅所洲崎町へ引き移り、7日町中を廻る。昼は屋台・笠鉾等、夜は額燈籠等が町中と湊口辺まで廻った。
 12月10日が町会所の御用納めであった。
 次に橋についてである。新潟町は橋が多くあったが合計で76、その内訳は藩営の橋19、新潟町町営の橋31、寺院管理の橋23、町内持ちの橋3で、それぞれ橋に関する費用の負担者が決まっていた。
 人びとの移動についての記述もある。他所へ奉公に行く時は、3か年あるいは5か年の根限(ねぎり、ねかぎり)を願い出た。根限とは居住地(宗門帳の記載地)に迷惑をかける場合があってはならないので宗門帳からはずしてもらうことである。戻ってきたらまた記帳してもらうが、当時宗門帳は戸籍簿であった。欠落者が出た場合は五人組・親戚が捜す。30日期限を最大6度繰り返して捜し、それでも見つからない場合は永さがしとなった。転住の時は身元保証やキリシタンでないことを証明する所請証文を移転元の庄屋から移転先の庄屋へ提出してもらい、さらに寺院から宗旨離檀証文を移転先の庄屋へ送付してもらった。
 旅籠屋は古町通弐之町と三之町で営業していた。逗留人の調査、取調も行い、逗留人が浄瑠璃や軍談等寄席興行を願い出た時は5日あるいは7日に限り認め、長逗留は認めないことになっていた。
 以上見てきたことは明細帳のごく一部分でその他の多くの事項については触れることができなかった。後日この史料をじっくりと読んでいただきたいと願っている。なお、前年と今回の史料を併せると全容が判明する。