12月の例会=報告

12月例会
平成26年12月20日(土)

「横越神社の風景―熊野若宮社と神明宮の合殿―」
本会会員・(財)北方文化博物館理事 神田勝郎氏

〈講演要旨〉
私の地元にある横越神社は熊野若宮社と神明宮とが合殿された神社である。今年の1月『横越神社の風景』と題し1冊の本をまとめることができた。
熊野若宮社は若一王子(にゃくいちおうじ)と呼ばれ横越下郷宮原に、神明宮は横越上郷にそれぞれ古く勧請された神社である。明治7年に熊野若宮社が神明宮の社地に移転し合殿を果たしていたが、大正8年の「奉遷宮村社 熊野若宮社・神明宮合殿御移転」の棟札も存在していた。
幸いに大正8年の棟札を立証する「合殿御移動」の時の古写真が五十嵐家に大切に保管されていた。その写真から、木臼を2段に重ね舟板を敷いて神殿(合殿)を載せ、木の丸太で50メートル引きずりながら移動したことが判明した。翌大正9年には横越下郷宮原にあった大鳥居も神殿移動に併せて搬送・再建された。この移設の時の古写真も幸運にも発見することができた。
横越下郷宮原の熊野若宮社の奥には、古くから「ジガ屋敷」と呼ばれた場所があり、かつては榎の大木があった。その地点はあたかも前方後円墳を思わせるような地形になっていた。また周辺には諏訪神社、千手海庵、行者塚、宗賢寺などがあり、一大宗教ゾーンのような感じのするところでもある。同時に明治5年頃の「家並図」を見ると、横越組大庄屋の建部家と小林家が並んで所在しており、横越下郷は要衝の地であったことがうかがえる。
横越神社の拝殿には安政5(1858)年の俳句奉納額や横越出身で群馬県知事を4期務めた神田坤六揮毫の扁額、さらに建部遯吾博士揮毫の大幟を写真撮影したものも掲額されている。そして昭和9年には境内地を囲む玉垣が築造され、神社としての見事な景観が整った。
このたび旧横越小学校の門柱を活用し、小林存の歌を彫字して歌碑として建立することができた。
  ふるさとの堤乃茶屋の酒悲し
      長橋渡るバスに手を振る
小林存さんらしい字であり、自分のふるさとを偲ばせる歌である。そして180名の浄財によって横越神社の社地の一隅に建立されたこの歌碑は今、横越神社の新風景となっている。