12月の例会=報告

12月例会
平成29年12月16日(土)

「ワンダーランド近世新潟町」
新潟市歴史博物館学芸員 小林 隆幸 氏

〈講演要旨〉
江戸時代の新潟町がどのような町であったのか、どのような姿であったのかを見てみたいと考え、「ワンダーランド近世新潟町」を企画した。近世の新潟町を理解するうえで重要なポイントは次の4点であろう。
1.浜を山手という。
2.通りが流れと同じ弧をえがく。
3.海岸からの砂が吹き積もる。
4.沈下しては盛り上がる。
この新潟町は戦国時代にはじまり、今よりも西方にあったようであるが、江戸時代には現在地に近い場所に移転してきていた。400年前の元和3(1617)年長岡藩主堀直寄によって拡張、整備され、その後明暦元(1655)年大きな中州になっていた寄居・白山島に移転した。現在の市街地はこの時に移転、整備された町割りを引き継いでいる。
江戸時代の新潟町の姿は絵図など当時の記録からうかがえる。元禄11(1698)年蒲原新潟立会小絵図や享和元(1801)年頃の新潟絵図を見ると、通りが信濃川に沿って弧を描き、川に沿って町がつくられ堀がめぐらされていることがわかる。品物を載せた小舟が堀を通じて町のいたるところに着くことができたであろう。江戸時代の新潟町は町全体が一つの湊であった。
また、川に沿って延びた通りに面して短冊状に割れた屋敷地が並び、川に近い通りに有力商人の店や問屋が、その奥に職人の店や旅館・料理屋などが、そして一番奥に寺が並んでいる町の構造も知ることができる。
長谷川雪旦の「北国一覧写」には、料理屋での宴会の様子、雁木の町家、障子戸の家、観光スポットにもなっている日和山等、当時の新潟町の具体的な姿が描かれている。
最近、市街地の地下深くから江戸時代の町跡が見つかっている。屋敷跡のほか、多くの焼物や当時の生活用具が出土している。最初に遺物が確認された広小路地点では、地下1.5メートル付近から建物の基礎が見つかった。深い場所から遺物が見つかる原因は地盤沈下のためであろう。広小路地点での調査では、10回以上も土盛りをして屋敷地をかさ上げしている状況が明らかになっている。

明治に入り、楠本県令によりさらに新潟町の整備がなされ、町並みは近代化し変化していった。2019年の新潟開港150周年を目前に、当時の絵図や発掘調査の成果を持ち寄って、江戸時代の新潟町の様子を浮かびあがらせてみることが、今回の企画展の趣旨である。
(講演会終了後、講師の案内で企画展を観覧した。)