2月の例会=報告

2月例会
平成30年2月17日(土)

「画家・川村清雄と越後」
新潟市美術館学芸員 藤井 素彦 氏

〈講演要旨〉
 川村修就は初代新潟奉行として有名であるが、その孫が清雄である。清雄の高祖父川村修常は元紀州藩士で、八代将軍吉宗の御庭番として紀州から江戸へ来た17人の一人である。有力な幕臣であった川村家は修富・修就・帰元と続き、帰元の長男として清雄が嘉永5(1852)年江戸で生まれた。
 清雄が10代~20代のころ、幕末から明治初期にかけては、今までの秩序がひっくり返され、侍の時代は終わったという激動の時代であった。そのことが清雄に与えた影響は大きい。元将軍家徳川家達は駿府に下ったが、奥詰として清雄も駿府に下向した。彼はこのような時代であるからこそ外国へ留学したいと徳川家に願い出、その願いはかなえられた。清雄が20歳のころにアメリカで撮った写真を見ると、彼の目の輝きが印象的である。清雄はアメリカ、フランス、イタリアに行った先々で絵画の修業をしている。英・仏・伊語を巧みに使って学び、華麗な青春時代を海外でおくっていたと考えられる。
 清雄はヨーロッパから離れたくなかったが、明治14年日本に帰国した。帰国後大蔵省印刷局彫刻技手となったが、すぐに辞職した。辞職後の窮状を救ったのが勝海舟である。勝は自分の屋敷の一角にアトリエをつくってやり、歴代将軍像を描くよう取りはからってくれた。勝の何回かの催促によりようやく完成した「家茂像」を見て、勝は「そっくりだ」と言ったそうである。清雄は遊んでいるようで実はしっかりと取材をしていたのである。
 清雄の絵は和洋折衷といわれるが、彼にとって明治11年のパリ万博は重要であった。出品された日本の美術品は侘び・寂とは無関係な、漆や蒔絵などの高度な技術が駆使された立派な作品で、清雄に与えた影響は大きい。明治23年勝海舟死去後、清雄は「形見の直垂」を描いたが、この絵はいわば清雄の自画像で、清雄と勝との関係には強いものがあった。
 勝の曾祖父は今の柏崎から江戸に出て検校の位を得た人である。勝や清雄と親交のあった政治家波多野伝三郎は旧長岡藩士の子供である。豪農市島春城は清雄の「ヴェニス風景」を残した。与板の豪商三輪家11代潤太郎は政治家でもあったが、彼の妹テイ(貞子)は明治25、6年ころ清雄と結婚している(27年離婚)。この三輪家の楽山苑・楽山亭には明るい空間を感じとることができる。西洋の文明を経験した数寄屋趣味とでもいうような、おそらく清雄の趣味がうまく生かされた建築物ではないかと、私は想像している。