12月の例会=報告

12月例会
平成30年12月16日(日)

デューク・エリントンと新潟地震
新潟市美術館学芸員・本会会員 藤井 素彦 氏

〈講演要旨〉
 今日は新潟市の戦後期についてお話したい。
 来年(2019年)の1月19日に新潟市で第33回ジャズストリートが開催されるが、このイベントには毎回「デューク・エリントンメモリアル」の名称がつけられている。デューク・エリントンはジャズの巨匠である。
 私はなぜ新潟で毎年ジャズの催物が行われているのか不思議でならなかったが、新潟の街中を歩いてみてジャズを聴かせる店が多いように感じた。ある意味で新潟は都会であると感じた。それはおそらく新潟の人々が家の中だけにいるのではなく、家の外で過ごす時間や空間が多いのではないのか、その時間や空間にお金を使う文化がまだ残っているのではないかと感じた。新潟はジャズが身近にある街といっていいのではなかろうか。
 1964年6月19日、エリントンとそのオーケストラが日本に向けてアメリカを出発したが、その三日前に新潟地震が発生していた。地震発生時セオフィラス・アシュフォードが新潟アメリカ文化センターの第9代目の館長として着任していた。また同年3月には星とよ子さんが館長秘書となっており、二人はともにジャズが好きであった。このアメリカ文化センターは戦後GHQ民間情報教育局所管の図書館からはじまり、アメリカの文化を日本国民に知らせ理解を深めてもらうという趣旨で設けられ、新潟には1948年に開設されていたものである。
 館長アシュフォードは地震で甚大な被害を受けた新潟の街を見て、来日中のエリントンに連絡をとり新潟地震救済の話をした。その話を聞いたエリントンは快諾し、7月8日新宿の厚生年金会館でチャリティーコンサートを実現させた。エリントンはすでにハワイ公演の予定が入っていたにもかかわらずそれをキャンセルし、チャリティーコンサートを実現させたのである。聴衆約2,000人、収益金の約96万円が新潟市に寄付された。新潟市は1966年国際親善名誉市民条例を公布、施行し、同年5月ライシャワー駐日大使立会いのもと、条例施行後初めての国際親善名誉市民章をエリントンに贈呈した。
 1970年1月エリントンは三度目の来日をはたし全国各地で公演したが、1月10日新潟県民会館でも公演が行われ、多くの新潟市民が彼の演奏を聴くことができた。
 エリントンは1971年、旧ソ連でも22回の公演を行ったが、1974年75歳で死去した。彼の人生は働き詰めの人生であったが、すぐれた音楽家であり、同時に高潔な人生でもあったといえよう。(エリントンが実際に演奏している映像も見ることができた。)