8月の例会=報告

8月例会
令和元年8月17日(土)

「開港場新潟」展を観る
新潟市歴史博物館学芸員 若崎 敦朗 氏

<講演要旨>
 今日は「開港場」というテーマでお話ししたい。まずはじめに文久2(1862)年発行の地球万国全図という木版刷りの地図に注目したい。日本人の木版技術の高さを示す一例であるが、この地図が頒布されていたことは、日本が当時すでに世界資本主義、市場世界に放り込まれていたことを意味している。
 新潟が開港五港の一つに選ばれた要因として新潟上知をあげることができる。天保14(1843)年新潟町が幕府領となったが、幕府のねらいは日本海側での異国船対策の拠点整備と、新潟町からあがる巨額の貢納金獲得にあった。初代新潟奉行川村修就は非常な能吏で、また砲術の名人であった。砲台の設置や大砲の鋳造など関連史料が残されている。
安政の五カ国条約により開港が決定されたが、新潟の開港は繰り返し延期された。それは激動する国内情勢とともに開港準備の不備によるところが大きい。慶応4(1868)年北越戊辰戦争により新潟町は戦禍に見舞われ、町は奥羽越列藩同盟の軍事拠点となり、町民は戦闘から逃れるため近郷へ避難した。
 戦争終結後新政府が樹立され、まもなく新潟は県庁所在地、県都となった。そして開港にともない新潟税関や新潟灯台がつくられ、外国との貿易が開始された。しかし、港をとりまく環境不全、冬の風波が強く水深が浅い等々から、大型船の入港は困難で貿易は不振といわざるをえなかった。それに対し国内物資の移出入は盛んで、とくに米、焼酎などが北海道へ移出された。焼酎を入れる容器として松郷屋焼の徳利が活用された。
 明治5年新潟県令として着任した楠本正隆は、外国人がみても恥ずかしくない新潟町をめざして開化政策を推進した。町名をわかりやすく変更し、高級住宅、白山公園を造成し、断髪の徹底や盆踊りの禁止など風俗の統制を進めた。同13年新潟に大火が発生し六千戸以上が焼失、近代的建築も含め新潟の町は大きな被害をうけた。
 しかし、19年萬代橋が完成、30年沼垂駅開業、31年電灯開始、32年上野・沼垂間開通、34年電話開始、そして同年新潟で一府十一県連合共進会が開催された。それは開化した新潟の街を示す絶好の舞台となった。共進会場に出品された「新潟名所すごろく」には、新潟県庁、県会議事堂、警察署、郵便局などが描かれており、共進会の主催地にふさわしい、都市化された新潟の状況が見事に表現された作品の一つになっているといえる。
(講演会終了後、講師の案内で企画展を観覧した。)