2月の例会=報告

2月例会
令和2年2月15日(土)

廻船問屋「当銀屋」の成長と北前船
新潟郷土史研究会理事 横木 剛 氏

<講演要旨>
 かつて廻船問屋齋藤喜十郎家・前田松太郎家について研究してきたが、本日はさかのぼって江戸期の当銀屋の具体的な経営にあたってみたい。
 はじめに廻船問屋は三つの役割をもっている。諸国廻船と湊町の商人を仲介して取引口銭を得る。取引に課税される仲金を納める。船頭の世話と管理を行うという役割である。
 本日のテーマの当銀屋は与板の備前屋の出店から始まる。備前屋は元禄期から米取引を行い、新潟湊からも出荷していた。さらに新潟に拠点を置くため、新潟商人の権利を取得し出店を開き当銀屋の屋号を使った。享保頃の米価の低落傾向や松ヶ崎掘割の影響のため廻船の新潟入津数が減少、衰退する廻船問屋も現れた。新潟出店も延享期に営業不振となり、出店で働いていた備前屋親戚の江口善蔵が引き継ぎ、宝暦6(1756)年に廃業した廻船問屋加賀屋津右衛門の株を取得して廻船問屋となった。株の取得とは得意先(顧客)の引き継ぎも意味した。また宝暦2年の成立から明和4(1767)年に町老、天明2(1782)年には検断となり町役人としても重きを成してくる。
 現在当銀屋江口家文書(約1400点)は新潟市に寄贈されている。当銀屋の経営を示す嘉永3(1850)年の史料をみると、売口銭500両、買口銭1,000両である。口銭は取引高の1.5%のため、取引高は売3.3万両、買6.7万両となる。ほかに貸金利息などの費目も分かり、損益を合計してこの年の利益は1,100両となっている。
 北前船は売買価格差によって経営を維持している。資金不足の場合は現金補填、借金もあるが、取引先の廻船問屋に資金を積んでおく場合もある。天明8(1788)年の店卸帳をみると6,000両の「粟崎差引預り」がある。これは顧客である加州粟崎の北前船主木谷藤右衛門からの預り金である。木谷家は遠隔地の材木の輸送販売から成長し諸藩の蔵米も扱った。寛政3(1791)年に当銀屋が木谷家に送った書簡には、新潟湊における木谷船積入れ、廻船の修繕、蔵米船の扱いが優先する慣行、能代鉛や三田米など商取引に関する情報を報告している。また天明6年の帳簿には、当銀屋が新潟湊のほかの廻船問屋への貸付金を記載している。
 当銀屋は、日本海海運に買積船が増加してきた時期と呼応して成長している。北前船主は取引先湊の廻船問屋に対する預け金の仕組みを活用して経営を展開、当銀屋はそれらの資金を活用してほかの廻船問屋に貸付けを行い、それがあらたな廻船問屋からの経営資金として投下もされている。新潟町においてこのような多様な金融の動きが背景となって、盛んな商品流通と相俟って湊の繁栄に繋がっていった。