新春講演会=報告

1月新春講演会
令和2年1月12日(日)

阿賀野川舟運と下条船
新潟大学人文学部教授 原 直史 氏

<講演要旨>
 本日は阿賀野川の舟運について、中でも特別に活動した下条船についてお話したい。
 江戸時代、幕府や藩は米で税を取っていた。そのため各地の年貢米を移動させなければならず、その移動には馬よりも船が使用された。船の方が大量に積むことができたためで、江戸時代は河川交通が活発であった。
 越後平野において長岡船道や蒲原船道など、船道とよばれる特権的な組織がつくられた。そして船道は各河川における特定ルートを掌握していた。このような船道に対し下条船はやや異なる展開をみせていた。
 阿賀野川は新潟と会津を結ぶ重要な河川である。その旧小川荘周辺は江戸時代会津藩領であり、津川町、海道組、鹿瀬組、上条組、下条組に地域区分されていた。阿賀野川の流れは津川・会津間が急流のため、船や馬からの荷物の積み替えで津川は交通の要地として栄えた。津川船道が存在し津川町、下条組の船持を統括していたが、津川町と下条組の船株数について文化15(1818)年の史料を見ると、津川町は大艜21、小艜3、下条組は大艜66、小艜28で下条組の方が多い。この船株数の違いなどから、下条組の船持の肝煎たちが独自の集団となり、次第に船道と同等の機能をはたしていった。
 下条組五十島村渡部家文書の中に、天明7(1787)年から慶応2(1866)年までの舟運経営を伝える史料がある。「積荷勘定帳」や「金銭受払帳」などである。天明7年の史料には薪の仕入値段と売値が記され、薪の売買価格差により利益を得るという買積経営の様子が記録されている。さらに弘化2(1845)年の史料から、五十島を出た船が中の口川、刈谷田川、小阿賀野川など複数の河川にまたがり広く航行し、下条船の活動範囲は越後平野全体に広がっていたことがうかがえる。
 この背景には六斎市の存在が大きい。渡部家には各地の市日を記録した史料が残されており、渡部家の船は六斎市を巡回しながら売買していたのであろう。そして大きな船が入ることのできない土地では、その土地で活動している小船と連携しながら経営を成り立たせ、大野、酒屋、満願寺など拠点となる停泊地では必要な情報を入手し、次の目的地への判断材料としていた。さらに大友村など在郷町とはいえない村でも、薪の売買を取り次ぐ商人が存在していたことも重要である。
 このような下条船の活動は、地元の長岡船道や蒲原船道と競合しなかったのであろうか。会津藩のもとでの下条船の活動であり、他藩でもこのような例はあったのであろうか。今後の検討課題であると考えている。