月例会

7月の例会=報告

7月例会
平成25年7月21日

「地名は旅をする」
本会会員・(財)北方文化博物館理事 神田勝郎氏

〈講演要旨〉
 昨年5月『横越の地名を歩く―岐阜県から山形県まで―』という1冊の本を出版することができた。その後新たに発見された資料もあり、今回それらも含め横越について、映像を見ながら紹介していきたい。
 横越という地名は、岐阜・福井・富山・新潟・山形の各県にあり、合計9か所確認できる。この横越の地名すべてを訪ね見ることができたが、いずれも川があり橋があり、川の流れと集落の位置関係などから横越という地名がつけられたのではなかろうか。新潟市の横越には横雲橋があるが、新潟県令楠本正隆の命名で、大河阿賀野川に雲がかかっているような大きな橋という意味であろう。
 また、横越という地名は、文禄5(1596)年直江兼続覚、永禄7(1564)年醍醐寺僧侶の費用帳、1530年代の高野山清浄心院越後過去名簿の記事中にも登場し、中世史料からも横越集落の成立を知ることができる。
 横越沢海の日枝神社境内に秋山好古書の忠魂碑がある。秋山の資料が400点余愛媛県松山市に残されているとのことで、今年の3月松山を訪問した。秋山が高田13師団長になる半年前、宮中午餐会に招待された時の招待状を確認することができた。松山出身で横越に関係する人物として洲之内徹がいる。彼の著書『気まぐれ美術館』の冒頭に横雲橋が登場している。また、大河津分水路補修工事を成功させ、地域の人々を救った宮本武之輔も松山出身の一人である。
 横越が生んだ碩学として、民俗学の小林存と社会学の建部遯吾をあげることができる。小林は会津八一や相馬御風など多くの人々と交流し和歌や著書を残している。建部も良寛堂発案者の佐藤耐雪や相馬御風との交流があった。横越の五ノ堀用水近くに小林存生家と建部家旧宅が並んで建っている。
 横越沢海の北方文化博物館とアメリカのカリフォルニア州サラトガ市箱根財団(箱根庭園)が、平成23年に姉妹庭園の関係を結んだ。横越が国境を越えて世界各地とつながっている。
 人は旅をする。地名もまた旅をする。地名を訪ねながら旅の楽しさをより一層感じてもらえればありがたい。



5月の月例会=報告

5月例会
平成25年5月19日

「フィルムを題材にした写真展の意味~小林新一の仕事から~」
新潟市歴史博物館学芸員 木村一貫氏

〈講演要旨〉
 今回の当館「報じられなかった写真展」は小林新一の写真とともにフィルムを展示してみよう、そのフィルムも見てほしいということに力点をおいた。それはフィルムそのものを展示することにより、報道写真家としての小林の動きをとらえることができるのではないのか、という考えからである。
 たとえば「アサヒグラフ」に掲載された松之山町の地すべりを取材した写真について、そのコマの前後を調べてみると、写っている男性のポーズが一定であることがわかる。おそらくより迫力のあるところを撮るためのある種の演出があったのではなかろうか。また、北朝鮮帰還船を取材したフィルムを見ると、見送りに来た一人の女子をずっと追いかけながら撮っていたことがわかる。この女子がバスを降りた時から、おそらく小林は「泣くだろう」と予測しながら勘を働かせながら撮っていたのであろう。
 新潟地震後、バスの中で子供が遊んでいる写真は子供の表情が非常によく、苦しんでいる家族とは思われない私たちに力を与えてくれる写真になっている。フィルムを見ると「アサヒグラフ」の編集者が選んだ一枚であり、小林は違う写真を選んでいた。写真家が何らかの意図をもって撮影する、その中から何枚かを選ぶ、さらに編集者が選ぶ、そして選ばれた一枚の写真が存在する。写真が選ばれていく過程もフィルム全体を見ることによって知ることができるのではなかろうか。
 フィルムは作品でなく、収蔵することはほとんど行われていない。リスクも大きい。しかし、当館では小林の4,000本以上になるであろうフィルムを、7か月間かけてスキャンニングした。今後の保存状態がどのようになるのか不明の部分もあるが、フィルムも含めた丸ごとの小林の写真を十分に見ていただければありがたい。

 講演終了後、木村氏の解説により写真展を観賞した。


4月の月例会=報告

4月例会
平成25年4月20日

「新潟奉行所役人の職務と生活」
本会会員・新潟奉行川村修就研究家 中野三義氏

〈講演概要〉
 講師の中野三義氏は、旧新潟郷土資料館勤務時に初代新潟奉行川村修就の御子孫から「川村家文書」が新潟市に寄贈される経緯に大きく関わり、その実現に尽力された。従前から川村修就に関して多方面にわたる論考を発表されてきている。
内容は、組頭・広間役・定役・並役の職階による勤務時間や職務の内容、各掛組織と職務内容、新潟奉行所の年中行事のあらまし、奉行所役人の生活と哀歓であった。
 長岡藩から上知された新潟町に設置された新潟奉行所の機能や歴史的な役割といった内容はあちこちの叙述にもみられるが、奉行所役人の生活の実相という視点での叙述や講演はなかなかない。それが小説ではなく、史料によって裏付けられた内容であるとさらにない。
 今回の講演は「川村文書」の翻刻に従事され、文書の内容を熟知されている氏でなくてはできない内容であった。年中行事に関する資料は、「川村文書」以外にもあり比較的に新潟町との関係など復元はできるが、奉行所役人の職務と生活に関して作成された略年表は苦心の資料である。資料中に川村奉行が部下の統率に悩まされたり、憤慨したり、人間川村修就の一面が伺われ興味深い。
 また奉行所役人の定数と処遇(給金)などの資料は、奉行の年収が1億円を超えると推定されたり、現在の価値への試算を示すなどわかりやすく構成されている。
 さらに奉行所役人の前職と転出先の資料では、その奉行所役人は経済官僚と軍事技術者を主として構成されており、それが幕府が期待した奉行所の機能であると説明された。
 最後に奉行所役人には病気隠居で退任した者が多く、職務の困難性などにも言及された。今日においても、人事は巡り合わせによっては人生の哀歓にもつながる。幕末期における人事の巡り合わせなどが、人生の哀歓を示しているとの締めくくりがあった。
 本講演は、歴史研究で難しいものの一つである生活の実相に迫ることにある。いずれも「川村文書」という貴重な史料を駆使した奉行所役人の生活探求であった。

3月の月例会=報告

3月例会
平成25年3月17日

「碑(いしぶみ)が伝える郷土の歴史」
前県立文書館副館長 本井晴信氏

〈講演要旨〉
碑(いしぶみ)が郷土史とどのように結びつくのであろうか。見てすぐわかる碑、わかりにくく説明が必要な碑……。碑にもいろいろあるが、自分なりに調べたり、あるいはその背景を知ったりしていく中で、さらに楽しみも増してくるのではなかろうか。今回は身近な碑を見ながら話を進めていきたい。(以下、多数の写真が提示され、その一つ一つについて詳細かつ楽しい説明があった)
○ 昭和大橋欄干端の縄文土器(火焔型土器)
○ 白山神社・竹内式部碑
○ 白山神社・楠本正隆像
○ 白山神社・タマ公像
○ 白山神社参道・備前焼の狛犬
○ 白山神社古町側赤い鳥居脇の「県社白山神社」社号碑
○ 西堀通二番町駐車場前の新潟女子工芸学校「西堀校舎跡地」記念碑
○ 白山小学校前・二宮金次郎像
○ 白山神社・一の鳥居
○ 白山神社・ラジオ塔
○ 白山神社・昭忠碑、神の武天皇像
○ 古町通一番町神明社・芭蕉句碑
○ 古町通一番町神明社・行田魁庵碑
○ 古町通の良寛像
(この他にも多くの写真が提示された)
 郷土史に関係する資料は古文書だけではない。碑に古文書並みの価値を、そして文化財としての価値を与えてほしい。現在の県庁舎や、今オープンしようとしているメディアシップなども、歴史的に見れば記念碑の一つかもしれない。
 今までの資料にたよりすぎず、より多くの方々から碑について自分なりに調べていってほしいと願っている。

2月の月例会=報告

2月例会
平成25年2月17日

古文書講座「天保期の新潟町を読む」 2
県立文書館文書調査員 菅瀬亮司氏

〈講演要旨〉
昨年の2月例会に引き続き「町方明細帳」を読みながら、天保期の新潟町について触れてみたい。この史料は天保14(1843)年新潟町が長岡領から幕府領に上知される際、その引継文書として作成されたもので、当時の新潟町の様子が具体的にわかる貴重な史料である。
 まず町会所の年中行事についてであるが、正月元日町役人一同奉行所へ年頭挨拶、3日・5日の両日検断・年寄が町中を年始に廻り、肝煎は各自担当組の町内を廻っている。8日が町会所の御用始、町役人一同裏附上下で出勤、諸職年行司(同業組合の総代)が申し付けられた。22日から定例の式日、式日とは検断・町老以下が町会所に出勤する日のことで、2・6・9の日であった。式日以外は交替で検断1人町老1~2人が町会所に詰め町政を執って月番制であった。
 6月12日より18日迄鎮守白山宮の祭礼、7月7日湊祭で住吉神楽が6日に白山宮より御旅所洲崎町へ引き移り、7日町中を廻る。昼は屋台・笠鉾等、夜は額燈籠等が町中と湊口辺まで廻った。
 12月10日が町会所の御用納めであった。
 次に橋についてである。新潟町は橋が多くあったが合計で76、その内訳は藩営の橋19、新潟町町営の橋31、寺院管理の橋23、町内持ちの橋3で、それぞれ橋に関する費用の負担者が決まっていた。
 人びとの移動についての記述もある。他所へ奉公に行く時は、3か年あるいは5か年の根限(ねぎり、ねかぎり)を願い出た。根限とは居住地(宗門帳の記載地)に迷惑をかける場合があってはならないので宗門帳からはずしてもらうことである。戻ってきたらまた記帳してもらうが、当時宗門帳は戸籍簿であった。欠落者が出た場合は五人組・親戚が捜す。30日期限を最大6度繰り返して捜し、それでも見つからない場合は永さがしとなった。転住の時は身元保証やキリシタンでないことを証明する所請証文を移転元の庄屋から移転先の庄屋へ提出してもらい、さらに寺院から宗旨離檀証文を移転先の庄屋へ送付してもらった。
 旅籠屋は古町通弐之町と三之町で営業していた。逗留人の調査、取調も行い、逗留人が浄瑠璃や軍談等寄席興行を願い出た時は5日あるいは7日に限り認め、長逗留は認めないことになっていた。
 以上見てきたことは明細帳のごく一部分でその他の多くの事項については触れることができなかった。後日この史料をじっくりと読んでいただきたいと願っている。なお、前年と今回の史料を併せると全容が判明する。

新春講演会=報告

新春講演会
平成25年1月13日

「新潟の古写真を読む」
新潟市歴史博物館副館長 伊東祐之氏

〈講演要旨〉
『新潟市史』やみなとぴあ(新潟市歴史博物館)の企画展で用いた古写真は貴重な資料であり、また、好評であった。古写真一枚一枚に意味があり多くの情報を伝えてくれる。
 昭和4年栄小学校の弥彦遠足の写真を見ると、児童は着物で下駄履きであるがいずれも新調したもののようで、当時の学校遠足は「晴れの日」の一大行事であったことがわかる。また、明治41年の大火の前の写真と後の写真とを比べてみると、家並みの状況など、街の変化を具に知ることができる。
 明治期の新潟には、高木・金井・和田・朝倉等々多くの写真家・写真館が存在し、今も八木朋直旧蔵写真、谷安平(笹川勇吉)旧蔵写真など多数の古写真が残されている。写真はいつ、どこで、だれが、何を意図して撮ったものか推理する必要がある。そして様々な視点から推理することによって新に見えてくるものがある。
 今日はすでによく知られている写真を見ながら、写されている物や事柄、景観などを語ってみたい。(以下、次のような古写真を見ながら詳細な説明があった)
 新潟県庁・県庁前の西堀・西堀鍛冶小路付近・道路整備中の古町通新川付近・道路整備の済んだ本町通坂内小路付近・古町通新津屋小路付近・新潟病院・白山神社付近・参道・ひょうたん池・公園入口・宮浦堀・他門川相生橋付近・他門川新津屋小路堀口付近等々
 身近な写真を読むことも大切なことである。例えば私の家にあるアルバムの写真から、昭和35年前後の子供達の様子や新潟地震の時の情景を知ることができる。そして資料は写真だけではない。何を食べ、何をいくらで買ったのか等々、その日その日の日記や家計簿、チラシ、あるいは思い出や聞き取りなど、自分のまわりにある歴史を一人一人が書き留めていくことが重要である。
 「内野の今昔」や「郷土赤塚」には写真解説の詳述があり魅力的な内容になっている。坂井輪や関屋などの公民館活動でも地元の写真を取り入れた充実した本を出版している。新潟郷土史研究会の「郷土新潟」も専門研究者だけではなく、在野の研究や調査を楽しんでいる人々の発表の場としてあった。
 自分の歴史を語ること、自分の語りを人々の前に出していくことが大切である。みなとぴあはそのような活動を支援し、そうした活動を基盤にこれからも事業を展開していきたいと考えている。


講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の新潟市長篠田昭氏からご多忙の中ご出席いただき、激励のご挨拶をいただきました。

12月の月例会=報告

12月例会
平成24年12月16日

「地図・空間情報で辿る新潟市域の変容」
新潟郷土史研究会会員 村上桂山氏

〈講演要旨〉
1 中央区天明町をフィールドとした「都市の変容」
1900年代:中川堀沿いに農家が点在(「信濃川河川台帳図」1901)。1925年:沼垂の市街地が拡大、万代町通沿いの宅地化がすすむ。古信濃川以西は宅地化されていない(「新潟市図」)。1945年(終戦時):天明町全域が宅地化される(「米軍写真」1947)。1972~2012年の10年ごとの住宅地図から変化を見ていくと、1980年代(昭和末)に入り都市内部に変化が生じ、駐車場・空家・集合住宅が増加し、人口が流出し万代町商店街の寂れていく様子がみてとれる。2010年代には、商店街・商店の衰退が加速、空き屋が増加し、空洞化が進む。

2 新潟地域の地図の紹介:現在から過去に遡ってみていく。
2050年:新潟市の将来の姿、1970-80年:新潟市都市域の拡張、1964年:新潟地震前後、国体・地震に伴う都市内部の変容、1945年:戦争前後戦争に関係する様々な特徴、1925年:新潟の都市計画により骨格形成、1900年:商業活動の姿商業活動が地図に展開される時代、明治から江戸の姿新潟市が信濃川左岸エリアの頃、1845年:幕府領時代の姿、1849年:長岡藩から幕府領への移行時。
新潟市域の変遷を知る絵図・空間情報としては、天領時代の姿を示す絵図(1845)、地租改正新潟区図(1883か)、新発田連隊地図(1894)、商業家明細図(1896~)、河川台帳図(1901)、都市計画基本図(1926)、新潟港図(1930)、宅地分譲図(1935)、昭和16年以降終戦までの地図、米軍写真(1947)、昭和31年都市計画図、昭和31年代以降の航空写真、昭和40年代以降の住宅地図等が基本となる。

3 まとめ
新潟市域には明治以降多様な地図・空間情報が存在し、これらは郷土の姿を知る際に重要な情報を提供してくれる。様々な地図・空間情報の履歴や節目を分類整理することから、地図の位置取りを明らかにすることができる。地図・空間情報は今後GISを手段として多様な情報表現を行う情報の基盤となる。過去の地図・空間情報が系統的に集約・保管がなされていない状況にあり、重要な課題である。

11月の月例会=報告

11月例会
平成24年11月18日

「旧齋藤家別邸の魅力と齋藤家の足跡」
旧齋藤家別邸アートディレクター 横木剛 氏

〈講演要旨〉
 旧齋藤家別邸は豪商齋藤家の四代喜十郎(庫吉、1864~1941年)が大正7年(1918)に造った別荘である。砂丘地形を利用した回遊式庭園と近代和風建築の秀作といわれる開放的な建物は、大正時代の港町であり商都であった新潟の繁栄ぶりを物語る文化遺産である。戦後この別邸は進駐軍の接収を経て、昭和28年加賀田家の所有となり、平成17年に保存運動が市民有志によって起こされ、その運動・支援が実を結び平成21年新潟市が公有化、整備工事等を経て今年の6月から一般公開されることとなった。

 別邸の見どころは、「庭屋一如」の設計思想、自然主義的作風の広大な庭園、贅と嗜好を凝らした近代的でスマートな建物というところであろう。
 また、郷土史的観点から鑑賞する“ツボ”をあげてみるならば、①別邸が建てられた西大畑地区の砂丘が生み出す自然景観や環境―そのすぐれた立地の特性、②別邸が造られた大正前期―日本経済に一番活気のあった時代性、③四代喜十郎は当時の新潟一の財界人で中央政界にも進出―別邸を新潟の迎賓館としての要素を持たせ、また妻ラクの茶道を親しむ場所としたこと、以上の三点であろう。
 この新潟の近代化をリードした齋藤家の繁栄については、二代喜十郎が幕末から明治にかけて廻船業を営み寄生地主として土地を集積し、さらに四代喜十郎が明治から昭和にかけて汽船業や化学工業、銀行業等々様々な事業を展開し、地方財閥としての力を蓄えていったことが考えられる。

 最後の20分間は、齋藤家に残されていた昭和12年頃の16ミリフィルムを鑑賞した。ナンバー1番のシボレーや改築した新潟銀行、新潟飛行場と羽田へのフライトなど、非常に貴重な映像が映し出されている。

なお、11月16日の文化審議会で旧齋藤家別邸庭園を登録記念物とする答申が出されており、近く答申通り告示されることになる。

9月の月例会=報告

9月例会
平成24年9月15日

「琉球王朝文化と田島利三郎翁」
琉球王朝禮楽保存会会長 安仁屋眞昭氏

〈講演要旨〉

琉球王朝は12世紀後半舜天王朝から始まったと考えられる。第二尚氏時代(1470~1879)の尚眞王のころ、国内で謡われていた様々な歌がまとめられていった。「おもろさうし」第1巻の編纂が1531年、第2巻が1613年、第3~22巻が1623年である。「おもろ」は「思い」の表記、祭政一致時代の祝詞や天体讃歌、航海安全の祈り等々を含んだ「古歌謡集」が「おもろさうし」で、古くはメロディを持って謡われた。

「おもろさうし」の管理と儀式や祭礼の「神歌主取(ヌシドウイ)」が置かれた。この役職は明治初年琉球王朝廃朝まで続いた。安仁屋眞刈(安仁屋眞昭氏の曾祖父)が最後の「神歌主取」で12代目であった。現在は「王府おもろ」として5曲のみ伝承されているが、1978年山内盛彬からの伝承者として私が受け継ぎ保存・紹介に努めているところである。

「おもろさうし」をはじめ沖縄・琉球研究の先覚者が新潟県出身の田島利三郎である。1893年沖縄県立尋常中学校の教師として赴任した田島は「おもろさうし」を書写し、関連資料を精力的に収集した。しかし彼は1895年突然解雇されてしまったが研究を続け、集めた資料を教え子の一人伊波普猷に譲り、その後は台湾、中国、朝鮮半島を流浪したと言われている。田島が研究し、残した資料は貴重で、彼の功績は非常に大きい。

「王府おもろ」の一つ、謝名思(ジャナムイ・後の察度王)を讃えた「おもろ」に次の一節がある(安仁屋氏が実際に謡い紹介された)。

――謝名思いが 謝名上原 上て 蹴上げたる露は 露からど 香しや 有る――

謝名思が散策した「謝名上原」は現在の普天間飛行場あたりである。この「謝名上原」(普天間飛行場)が一日も早く返還され、琉球王国の国是であった平和の心を世界に発信する基地になってほしいと願っている。

8月の月例会=報告

8月例会

「『殉節の碑』建立に携わった人びと」
新潟郷土史研究会会員 高橋邦比古氏

《内容要旨》

新潟市の新潟大神宮(中央区西大畑町)には、戊辰戦争中、新潟で戦死した会津藩士の鎮魂碑『殉節之碑』が建っている。この碑は明治23年建立されたものであるが、建立に至るまでには多くの人々の労苦・支援・悲願があった。

建立に先立つ明治17年、戊辰戦争戦死者17回忌法会が新潟市の法音寺で行われた。発起人の津田耕平・佐藤昌平、「祭文」起草者寺田徳裕・寺田徳明、「捧」起草者工藤衛守、鎮魂の詩歌を寄せた工藤張琴、田中小稲等々、多くの人々の協力があった。

明治23年『殉節之碑』が建立された。碑の撰文並びに書は南摩綱紀(明治の教育者)、石工は倉田緑司、そして碑建立の中心者津田耕平・鹿野治郎は翌24年、この紀念碑竣工の大祭典を新潟大神宮で執り行った。この時二人は三條小鍛冶宗近刀をはじめ義捐金名簿、掛物、祭文、詩歌、戦死人名簿を奉納し目録を作成、「永世保存し御祭典の時には御拝殿に陳列し、参拝者の縦覧に供してほしい」と覚書に記した。

『殉節之碑』建立の経緯について、新潟郷土史研究会会員の長井信平・小川チヨ両氏の示教を得て、先の掛物、祭文、捧、目録、覚書等々を確認することができた。碑建立の中心者の一人津田耕平は戊辰戦争後、新潟県本庁第三課地租改正掛等々で活躍、明治24年大祭典後忽然と新潟を去ってしまう。もう一人の中心者鹿野治郎は戊辰戦争後、三戸(斗南藩)から会津へ帰る途中新潟港で足止めにあい新潟で生活、14歳はじめ頃表具師八木錦水に入門、修業に修業を積み名人といわれる。昭和5年72歳で没した。

津田・鹿野二人も含め、碑建立に携わった人々について今後も調査をすすめていきたい。