月例会

5月の例会=報告

5月例会

令和5年5月21日(日)

新発田藩の銃隊について 

講師:本会会員 富井 秀正 氏

<講演要旨>

溝口秀勝は越前国北庄城主堀秀治の与力で、慶長3(1598)年秀治の越後移封にともない新発田へ入部し、初代新発田藩主となった人物である。この新発田藩(溝口家)の藩士及び銃隊が幕末にどのような動きをしたのかを見ていきたい。

幕府は天保年間(1830~43)西洋砲術を導入し、これが諸藩に伝わっていった。新発田藩では嘉永4(1851)年和流砲術師範藩士佐治孫兵衛と堀一藤次が西洋砲術修行のため江戸行きを命じられた。二人は江川太郎左衛門の門人井狩作蔵に入門し、二年後免許皆伝となって新発田に帰藩した。そして藩内で他の藩士に砲術指導を行った。

元治元(1864)年新発田藩では銃隊に主力をおいた洋式訓練、砲術稽古が行われた。まず藩士に訓練を行ったが藩士だけでは人数が不足し、村役人とその身内の者で15才から50才の者が1000人集められ城内で訓練が行われた。この時の「定」がある。「定」には稽古に精を出す、勝手なことを慎む、先輩に従う、火薬を粗末にしない等々が記され、これらのことを誓って稽古が始められた。

銃隊稽古が始まると、経費が増大し訓練期間が長く、しかも物価高騰などで迷惑している、隊員の士気にもかかわるので補助金を下賜してほしいと、隊員手当の増額を願い出る名主・組頭もいた。このような中で銃隊は大隊・小隊、太鼓隊などに組織され、また訓練では「直れ」「進め」「ねらえ」「打て」「込め」などの号令が発せられていた。

慶応元(1865)年の「銃隊組入用金拠出につき褒章通達書」が残されている。亀田町百姓甚兵衛・松三郎が400両献金し、「孫代まで苗字御免」の褒章をうけている。他にも多額の献金をし褒章をうけている者が多数おり、これらの多くの名主・百姓たちの献金によって銃隊が維持され、同時に献金により与えられた褒章が彼らにとっては非常に名誉なことでもあった。

慶応3年新発田藩は幕府から江戸城鍛冶橋御門番を命じられ、銃隊2小隊が出動した。横越組からは山ノ下新田名主ほか4名が動員されたが、動員された者たちは選ばれた優秀な者たちであった。

同4年4月非常時の備えとして銃隊の沼垂への出張が命じられたが、同年7月25日新政府軍が太夫浜に上陸、新発田藩は反幕府方として行動するところとなった。この北越戊辰戦争に関し、新発田藩は何もしていないという意見があるが、そうではなく、銃隊をはじめ様々な準備をしていたといえるのではなかろうか。

4月の例会=報告

4月例会

令和5年4月15日(土)

豊臣期上杉家と京都・伏見・大坂 -上杉家の留守居と人質を中心に- 

講師:新潟大学人文学部准教授 片桐 昭彦 氏

<講演要旨>

 豊臣期の上方での上杉氏家中の実態や動向については、分からないことが多い。上杉家が他の武家・公家・寺家などと交わした書状が殆ど残っていないためで、断片的に散在する史料からみる。上杉景勝は、天正14(1586)年初上洛、秀吉に臣従。同16年再上洛、京都に邸地付与、17年妻菊や女房(人質)らを連れ上洛、文禄3(1594)年秀吉の上杉邸御成り、翌年伏見に転居、慶長3(1598)年景勝会津へ国替え、同5年家康、会津の景勝を討つため下向、関ヶ原合戦に敗れ景勝は米沢へ減封された。

 千坂景親、景勝の正室菊、直江兼続の妻子に関する史料から上杉家の上方での動向を探ってみよう。千坂対馬守景親は京都・伏見の留守居役、文禄3年知行2,176石であったが、会津国替えの際は5,500石。天正13年景勝が秀吉への太刀・馬の贈物の供に千坂対馬・村山安芸、翌14年の秀吉茶会の供に直江山城・千坂対馬と記されている。『宇野主水日記』天正14年6月条に景勝が門跡(顕如)への太刀1腰・馬1疋献上の使者として千坂対馬守参上とある。また『晴豊記』(公卿勧修寺晴豊の日記)には天正18年1月から2月に銭、酒、藤戸のりなどの贈答例などもみえる。天正19年閏正月6日の上杉・直江両人へ茶湯の振舞、広間にて千坂ら15人相伴とあり、直江兼続に継ぐ扱いをされている。この『晴豊記』は天正18・19年と文禄3年以外は残っておらず、残存部分だけでも千坂景親の記事はかなりあり、豊臣家や京都の公家・寺社との交流のため留守居としての活動が推測される。関ヶ原後も上杉家の赦免を願って奔走していた。

 景勝の正室菊は、武田晴信の娘、天正6年景勝が勝頼と同盟を結ぶ条件として婚約。菊は天正18年以降、京都で勧修寺晴豊夫妻や妹准后(後陽成天皇母)と音信・贈答を通し交流。『晴豊記』には天正18年8月から翌19年2月までに4回、上杉内記(菊)から蝋燭、伊勢エビ、柿、鮒など賜の記載がある。また、菊は妙心寺住持の南化玄興に帰依し、玄興は甲斐の恵林寺滞在など武田家との縁あり、晴信25回忌、勝頼17回忌の供養を菊とともに伏見で行い交流を重ねていた。

 直江兼続の妻子も上洛、文禄4(1595)年に9才の娘が吉田神主兼治の猶子となっている。文禄4年7月、8月の『兼見卿記』(兼治父の兼見の日記)には、直江の息女猶子のことや祝儀を使者源左衛門が持参のこと、直江内儀への御礼、贈答品などが詳細に記されている。文禄4年に直江兼続も伏見に転居しており、菊や千坂も共に移ったと思われる。慶長5年12月兼続娘は上杉家の行末を案じ、春日社に燈籠代黄金2枚を進上した。この頃、娘や乳母は大坂滞在と思われる。慶長5年9月から翌6年3月には家康は大坂に居り、上杉家赦免の折衝を続けた千坂景親も大坂にいた。同6年5月春日社の燈籠油料を寄進した兼続の妻せんも大坂にいた。

 豊臣期の上方における上杉家の動向について、公家や僧侶の日記や寺社の記録などの断片的な史料を収集整理することが重要で、景勝や兼続妻女の動きも貴重な史料となっている。

3月の例会=報告

3月例会

令和5年3月12日(日)

近世越後における情報の伝達と収集―越後に伝わる異国船襲来と北越戊辰戦争の事例―

講師:本会副会長 菅瀬 亮司 氏

<講演要旨>

 文化年間にロシア船がカラフト・千島列島を襲撃した事件が越後に伝わっている。また北越戊辰戦争の様相を三王淵村の庄屋が収集し、記録に残している。これらの事例から、情報や風聞がどのように収集、伝達されたのかを、当時の社会をふまえ考えてみたい。

 「異国船一件ニ付所々之文通併風説控」(Ⅰ)には文化4年に作成された9通の書状があり、文化3年9月から文化4年5月にかけて起こったロシア船襲撃事件(「露冦事件」)についての情報伝達のようすを知ることができる。書状9通は、松前の役所間、津軽藩から庄内藩、村上藩・新発田藩と新潟奉行所、庄内酒田問屋から新潟廻船問屋、会津藩から新潟町会津蔵宿、新潟町年寄と検断の文通のものと当時松前に居て新潟湊に帰帆した早川村の仁助船からの聞き取りであるが、いずれも事件の情報が比較的短時間で越後諸藩や新潟町へ伝達されている。

 次に、三王淵村(燕市・村上領)庄屋田野家旧蔵文書「風聞書三」(Ⅱ)により北越戊辰戦争の情報と風聞をみていく。「風聞書三」の内容を時系列に整理すると、大政奉還の上表、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、長岡に至る戦線、長岡攻防戦・長岡落城前後の記載である。戦線が中越後に延伸するなか、江戸の様子や村上藩主一行の帰国にも記載は及んでいる。さらに、村方・町方に起こった騒動や兵士取立て・食料供出、庄屋の動き、米沢藩の弥彦神社神楽奉納など、内容は幅広い。風聞書の情報には、御達・御触、書状、願書・報告等、勅書・御沙汰、聞き取り、風聞併せて52項目ある。中越後の動向以降、米沢藩による新潟管理、新政府軍の新潟上陸と占領などの新潟攻防戦、同盟軍の長岡城奪還、新政府軍による長岡再落城、村上方面への北進などの記載はない。鳥羽伏見の戦いについては戦場体験者の聞き取りがあり、長岡周辺に迫る戦いの推移や長岡城攻防戦に関する情報・伝聞の把握が最大の関心事であったと思われる。庄屋田野庄助の「世間」を踏まえた風聞書と思われ、いわば三王淵村庄屋がみた北越戊辰戦争ともいえよう。

 Ⅰの史料によって情報が伝達される時間の状況を検討した。この事例だけでは速断できないが、想定外に早く伝わっていると感じた。また村上にもロシアとの争乱が文化4年6月には伝わっている。Ⅱの史料では、情報・風聞の収集範囲や実態を整理し、併せて記載者の情報に対する姿勢や所感にも言及したが、収集した情報や風聞の多量さに驚いた。この背景には情報に接することを可能とした幅広い人脈や交流があったと思われ、収集者の社会における位置、地理的な位置、支配関係における位置等が反映されているとも感じた。近世越後社会における情報のもつ役割は、他の同様な史料を検討することによって補完することができると思われた。

2月の例会=報告

【2月例会】 令和5年2月19日(日)

雑話:「新潟湊に現れた異国船と関屋村」余滴

講師:当会会員  植村 敏秀 氏

<講演要旨>

 令和元年5月例会で報告し『郷土新潟』第59号に掲載された論文の中で、触れることのできなかった点を中心にした、「余滴」ということでの補足報告である。

 今年度から、高校では「歴史総合」という科目が始まり、近現代史を中心に世界史の中での日本史という観点で、ちょうど本報告の時期である幕末の「ペリーの来航」から開始されている。

 明治維新につながるその幕末激動期の中、安政5(1858)年に締結された五か国条約によって新潟は開港地となったが、国際港としては種々問題があり、適否調査が行われることとなった。幕府の調査隊は、同年10月24日(新暦11月29日)に新潟に到着し、早急に河口港である新潟湊の実態調査をして、大型船入港困難等の課題をまとめ上げた。さらに加賀藩、高田藩、桑名藩領寺泊湊、出雲崎湊、尼瀬湊、柏崎湊等における状況把握にも努め、日本海側代替港の検討も行っている。

 安政6年の異国船渡来に対する協力に対し、当時の関屋村庄屋であった齋藤熊之助は褒賞として「褒美金百疋、手当同弐分」をもらったことなどが、「安政6年『関屋村 御用留』」の中で記載されている。さらにこの御用留には、異国船は調査のために突然新潟湊に来航したことが記されており、諸外国の新潟開港に対する危惧、懸念が窺われる。

 同年10月9日(新暦11月3日)には、イギリス船「アクトン(アクティオン)号」と「トウフ(ドーヴ)号」2隻が来航停泊し、乗員が新潟町に上陸した後、翌日出帆している。この際、英国海軍水路部作製の「海図『JAPAN』(略称)」を携行していたが、新たに周辺海域の調査を行っており、その後も佐渡島も含めた実態把握に努めている。フランスはこれに対して独自調査を行っていないが、冬期間の波浪による入港の困難さも相まって、新潟港に対する評価は他国同様に低く、開港は紆余曲折を経て、結局1869年まで待たなければならなかった。

 江戸幕府の鎖国体制下、「関屋村御用留」の中に外国の名前が登場したのは、この安政6(1859)年が最初と考えられる。外国船が隣接する新潟湊に相次いで入津し、度重なる風水害への対応にも追われる中で、派遣された長岡藩の防備要員の駐屯受容にも翻弄された。

 新潟湊に隣り合わせた小村にも国際化の波が押し寄せたわけだが、村人たちはその後10年を経ずしてやってきた戊辰戦争、明治維新という大激動期を、庄屋とともにしぶとくも生き抜いていったのである。

1月の例会=報告

【1月例会】令和5年1月21日(土)

「江戸時代の旅と越後の名所」

講師:新潟県立歴史博物館専門研究員 渡部浩二 氏

<講演要旨>

江戸時代の庶民の旅は18世紀後半から多くなり、19世紀前半に一つのピークをむかえた。享和2(1802)年の十返舎一九『東海道中膝栗毛』や文化7(1810)年の八隅蘆菴『旅行用心集』の出版が影響している。そして街道の整備や庶民の経済力上昇、参詣の遊楽化、講の発達などが旅の盛行の背景と考えられる。

江戸時代初期、佐渡の産金輸送路として「佐渡三道」(北国街道・三国街道・会津街道)が整備されたが、18世紀後半以降、越後を訪れる人が増加していった。それは親鸞の旧跡地巡拝のため、東北地方の人々の伊勢参詣の往路・復路として、そして関東地方の人々の出羽三山参詣の往路としての旅であった。また文人、知識人の往来も頻繁であった。

旅の盛行にともない街道や宿場・名所などが記された携帯に便利な小型の「道中記」が盛んに刊行された。そこには親鸞の「二十四輩巡拝」や「親鸞の七不思議」関係の記事など記されている。新潟市鳥屋野の逆竹、同市山田の焼鮒、阿賀野市の八房梅、数珠掛桜、三度栗、田上町の繋榧などである。

同時に「越後七不思議」関連の記事も多く記されている。日本最古の即身仏・弘智法印(西生寺・長岡市野積)、自噴する火井(天然ガス、三条市如法寺)や燃水(石油、新潟市秋葉区)等々、いずれも越後独特の名所・奇観であり、訪れた旅人は大きな驚きとともに知的関心をより一層深めていった。そしてそれらは下越一帯に集中しており、一つの巡回ルートとして成立していたと思われる。

旅の盛行にともない旅宿も整備されていった。当時は旅籠、木賃宿、善根宿、合力宿などさまざまな旅宿があったが、1800年代に入ると木賃宿が少なくなり旅籠に泊まる旅人が多くなったように思われる。そして旅籠の組合として講が結成された。関東地域における講は「東講」で、越後の旅籠もそれに加盟するようになった。「東講」の看板が掲げられていれば「安心して泊れる」と旅人から受けとめられていたようである。また各旅籠は「引札」を作って宣伝も行っていた。

以上のように江戸中後期、越後へ多くの人々が訪れた。そして越後への旅人の増加とともに多くの記録が残された。『東奥紀行』(長久保赤水)、『東遊記』(橘南渓)、『金草鞋』(十返舎一九)、『虎勢道中記』(江戸の商人与八)など、いずれも当時の越後の状景が記録され非常に貴重な出版物となっている。

今後は、旅の流行が越後社会に与えた影響について、そして地域側の対応について解明していきたいと考えている。

12月の例会=報告

12月例会

令和4年12月18日(日)

小栗忠高墓碑銘再考 -杉浦吉統・吉陽父子にみる江戸後期の学問世界-

東京大学史料編纂所学術支援専門職員 杉山 巖 氏

<講演要旨>

 小栗又一忠高は、江戸後期の旗本、新潟奉行在職中の安政2(1855)年7月に死去、墓碑は新潟市西堀通3番町法音寺にある。令和3年8月刊の小栗上野介顕彰会機関誌『たつなみ』46号は、この墓碑銘の撰文者杉浦吉陽を新潟出身とするなど若干の疑義がある。今回はこの墓碑銘を通し小栗忠高、杉浦吉陽のことや幕末新潟の学問世界について考える。

 小栗忠高は旗本中川忠英(家禄1000石・大目付)の子息、小栗忠清(2500石)の養子となり、死亡後の家督は幕末の外交で活躍した小栗忠順が継ぐ。墓碑は「小栗源忠高君之墓」背面に忠高の事績を刻む。碑文は磨滅しているが幕末頃の拓本が群馬県に所在する。

 碑文を起承転結で検討する。起、小栗家の通称「又一」の由来は始祖忠政が徳川家康に仕え、戦の先陣を切り功績を成したため「又一」を賜り通称とした。しかし江戸前期の「寛永諸家系図伝」などは「又市」と記載、これは江戸期にできあがった伝説と思われる。承、忠高は小姓組番衆、御使番、西丸目付、御留守居番、持筒頭を経て、安政元年閏7月新潟奉行、同2年7月28日病みて卒、47歳。転、忠高は部下を公平に扱い、庶民に礼儀を教え、新潟を隊伍操練の場とし海舶輻輳のため海防の備を整えようとしたが死去。結、幼くして黒岩雪堂に学び、私(吉陽)と同師。忠高は奉行、吉陽は部下。男子忠順で書院番。忠順が撰文を依頼。安政3年丙辰申2月、建碑者は忠順となっている。

 小栗忠高はいつ死亡したのかを解明する。小栗忠高の後任の新潟奉行として着任した根岸衛奮が編者である幕府の役職別職員録『柳営補任』は、忠高の死亡日は7月28日としている。しかし忠順の『日記』には、慶応3(1867)年正月から4年2月までの毎月10日に小栗家の菩提寺である江戸牛込の保善寺に墓参、7月10日には13回忌を営んでいる記録がある。また『小泉蒼軒日録』(安政2年10月24日条)には「新潟前御奉行小栗又一様7月12日曉御卒去」とあり、12日は10日の誤伝と思われる。7月28日は忠順が新潟に着いた日であり、それを待って忠高の死を公表したものと考えられる。

 撰文者の杉浦吉陽を探ってみよう。下級幕臣で書家・漢学者として知られ神田小川町に住む杉浦吉統の子息である。吉統は原得齋編『先哲像伝』に肖像と伝記があり、「一男、名吉陽、称忠蔵」とある。吉統は江戸下谷の東源院の墓碑銘に書に勝れ、柴野栗山の弟子で勘定所の下役人。学者・文人として中川忠英、大田蜀山人らとも交流があった。子息の吉陽は天保14(1843)年川村修就の新潟奉行就任に伴い部下として来港、小普請組から新潟奉行所定役に抜擢された。奉行所では学問の教官、明の漢籍『祥刑要覧』の講義、学問所観光館でも講義を担当、反面砲術の教練は苦手、役人子弟の教育に努め町人にも聴講を許可したという。慶応2年12月11日に病気のため新潟奉行所辞職、帰京後小普請組入り。新潟の学問興隆に寄与した。

11月の例会=報告

11月例会

令和4年11月20日(日)

阿賀野川流域における筏流送及び川汽船就航について

元新潟市江南区郷土資料館長 齋藤 昭 氏

<講演要旨>

阿賀野川は全長210kmあり、只見川・伊南川などの支流が会津盆地で合流し、津川に至り、新潟で日本海に注ぐ。水運は舟と筏が中心で、津川が物流の中継地であった。会津藩から許可され、阿賀野川水運権を独占していたのが津川船道という舟運組織であった。

筏搬送について。筏は只見川等を流す上川筏、常浪川等を流す内川筏、津川から阿賀野川を流す下川筏があった。筏では杉・欅・松・栗などを搬送した。津川が筏の集積地であり、組み直しが行われた。筏搬送は江戸時代から行われ、大正から昭和20年代が絶頂期であったが、木材の伐採、鉄道・自動車など交通の発達、道路網の整備により衰退し、特に発電所建設に伴うダム築造により木材の流送不能に陥ったことが致命的打撃となった。

舟運について。阿賀野川を航行した舟には、貨物船としてのアガワ舟・カケチガイ舟、客船としての長舟などがあった。津川から新潟への下り荷には穀物・木炭・薪などがあり、新潟からの上り荷には塩・米・大豆などがあった。イザベラ・バード著『日本奥地紀行』によると、津川~新潟間就航定期船は長さ約14m・幅約2m、船賃30銭、後部にワラ屋根(乗客船室)が設置されていた。津川を午前6時に出航すれば、新潟には午後5時に着く。ただし、沿岸の着船地での乗降、積荷の搬出等により、途中の酒屋付近で一泊するのが普通であった。舟運も昭和36年の楊川ダム工事により終焉を迎える。

川汽船の就航について。川汽船は明治7年(1874)7月、楠本正隆県令の指示による信濃川航路の川汽船会社創設を端緒とする。同年10月に新潟~長岡間の営業が開始される。新潟を午前7時に出発し長岡に12時に着くため、従来は2~3日を要した時間が大幅に短縮され、大変な活況を呈した。こうして川汽船経営会社が次々に誕生することとなった。明治14年に長岡資本による安全社、明治15年に小千谷資本による彙進社などが創設されるが、会社間での過当競争が激しくなったため、会社の統合が進むこととなった。

阿賀野川航路での川汽船の航行は、明治15年11月の安全社による新潟~酒屋~分田間の往復航行に始まる。経営会社はその後、改進丸取扱所、西川汽船会社、阿賀川汽船会社、鉱汽会社・協益社、阿賀丸汽船会社と目まぐるしく変わるが、明治31年12月末をもって阿賀野川航路が終焉を迎えるに至る。

栗ノ木川航路での川汽船は、明治16年1月に亀田川汽船会社により亀田~新潟間の往復航行が開始された。同年5月に鶴遊社による航行も始まったが、同年内に両社合併に至る。亀田川汽船会社は明治17年に新潟~三条間の往復を開始したものの経営難に陥り明治18年に経営者が退陣、亀田汽船株式会社と改称した。栗ノ木川航路は明治31年12月に北越鉄道三条~沼垂間の開通、新潟~沼垂間の馬車開業の影響を受け、終焉を迎えた。

9月の例会=報告

9月例会

令和4年9月18日(日)

「天保9年 佐渡一国一揆 -身命をかけた義民善兵衛-」

講師:当会顧問 中村 義隆 氏

<講演要旨>

江戸時代、私の出身地である佐渡にはいくつかの一揆が発生した。中でも今から180数年前におこった天保9(1838)年佐渡一国一揆が有名である。

江戸時代は士農工商という身分による差のある社会であったが、天保の頃からその秩序は崩れ、身分制を飛び越えようという人々の思いが強くなっていった。このような時代背景の中で生じた一揆が天保9年佐渡一国一揆である。幕府はこの動きをなんとかくい止めようとし、水野忠邦による天保の改革が行われたが、その成果をあげることは難しかった。

天保8年将軍が12代家慶に替わったが、将軍交替の時は幕府から代替わりの巡見使が全国に派遣されることになっていた。この機会をとらえ、佐渡上山田村善兵衛等が中心となり、佐渡に来た巡見使に訴状を提出しようという取り組みがはじめられた。善兵衛等の取り組みに対し、佐渡全町村261か村のうち、220か村が参加、名主・組頭・百姓代など村役人層の参加も多数にのぼった。

佐渡全体の村や村人たちが善兵衛等の取り組みに参加していった背景には、佐渡における米価の変動や年貢高の上昇、貨幣経済の浸透、役人の不正を糺すという村人たちの思いなどがあった。実際訴状は天保9年閏4月巡見使に提出されたが、巡見使は「江戸帰還後追って沙汰する」旨を伝え離島してしまった。そして奉行所により善兵衛は捕らえられたが、村人たちの強い運動で釈放され、同時に小木町の問屋や八幡村名主宅などが打ち壊され、その打ち壊しは3か月間続いた。奉行所では対処しきれず、老中水野忠邦は高田藩兵200人の出動を命じ、それにより8月下旬一揆は鎮圧された。

天保9年に提出された訴状には何が記されていたのであろうか。10数か条にもなる訴状を読んでみると、その内容は多岐にわたるが、主要な点は、商売のじゃまをしないでほしいという商人・豪農層の要求と、困窮した生活を何とかしてほしいという小前百姓層の要求の二点になると考えられる。

このそれぞれ立場の異なる二つの要求を一つの訴状にまとめ、佐渡住民全体のために身を捨てて訴え出た善兵衛の姿勢が、多くの佐渡の住民から支持されたのではなかろうか。善兵衛は再び捕らえられ処罰されてしまったが、現在佐渡一国義民殿にまつられている。

この義民殿が建てられたのは昭和13年であった。日本が軍国主義へと走っていった時代である。善兵衛の「忠義」「義民」が当時の時代に利用された面があったのではないかと、今そんな思いも持っている。

8月の例会=報告

8月例会

令和4年8月21日(日)

「学校町・関屋地域及び小針地域 歴史から消えた幼稚園・保育園」

講師:関屋映像研究会・本会会員 石塚 端夫 氏

<講演要旨>

〇明治・大正期の新潟市と幼稚園・保育所:現代の保育に息づく「赤澤ナカ」

 赤澤ナカは夫の赤澤鍾美と明治29年に再婚同士で結婚した。明治10年代に松方デフレ緊縮財政が展開された。本県でも土地を手放す小農と集積する大地主が現れ、離農者の新潟町流入も起こった。働く女性にとっては保育の必要性は大きかった。新潟市教育会は就学率向上を図り明治32年に関屋に子守学校を開設、幼児の面倒をみながらの通学を許可した。赤澤鍾美は明治23年には私塾を新潟静修学校と改名し保育所を付設し、わが国最初の託児所を設置した。同41年守弧扶独幼稚児保護会(赤沢保育園)となる。赤澤家に嫁入りしたナカの保育は試行錯誤の連続であった。祖父母・父母から聞いた歌、昔話、遊びを保育所の幼児に試み、西堀幼稚園にも足を運び保育所に合う教育内容を取り入れていった。ナカは昭和12年夫鍾美没後に2代目守弧扶独幼稚児保護会会長となった。 

〇幼稚園・保育所の戦後から平成までの制定と保育教育の変遷

 戦前都市部で富裕層の幼児保育を行っていたのが幼稚園。有資格保姆による保育の質の高さはあったが、働かざるを得ない婦人たちのニーズには合わなかった。保育所は託児所として共稼ぎ家庭や働く婦人たちの支えとなり、着々と発展した。戦前「幼稚園令」(大正15年)は制定されたが、保育所だけは他の児童福祉施設と異なり保育を要する児童だけでなく、一般児童も対象とする施設と定めた。

 昭和26年に保育所は「保育に欠けるその乳児または幼児を保育することを目的とする施設とする」と定めた。「保育に欠ける」とは小さい子供が自分のことを出来ない3歳以下の子供を指す。保育所は幼稚園と異なる児童保護施設として位置づけられ、やがて幼稚園と保育所の二元化が固定化された。その後の高度成長期にサラリーマン家庭が増加し、「保育に欠けない幼児」は幼稚園に入り保育所の在籍率が下がった。一方で、1990年代以降再び共稼ぎが増え幼児を預けたため保育所不足となった。4時間保育を原則とする幼稚園では園児不足となり、幼稚園は生き残りを懸け延長保育、預かり保育を取り入れた。この結果「学校」として勤務する幼稚園教諭は長時間労働を強いられることになった。

 現今では保育園と幼稚園と認定こども園の体制となっている。その違いは、保育園は厚労省管轄の福祉施設、幼稚園は文科省管轄の教育施設、認定こども園は平成18年に制定され内閣府管轄の幼保一体型施設で教育と保育一体的に行い保育料は家庭状況に合わせ自治体が決め、その形態は大きく分けて4種類あり、年々その数を増やしている。

〇実業家から転身して新潟夜間中学校や新潟育児院保育所を設置した冨山虎三郎の人物像を紹介

 新潟育児園、西堀幼稚園、佐和波保育園、鏡淵幼稚園など消えた幼稚園の歴史を辿る一方、平成31年4月現在の幼稚園・保育園の状況として中央区や西区の一部の幼稚園や保育園の歴史及び現況についてスライドで紹介した。

7月の例会=報告

7月例会

令和4年7月17日(日)

「大河津分水・関屋分水と新潟市」展を観る

新潟市歴史博物館学芸員 森 行人 氏

<講演要旨>

 今回の「大河津分水・関屋分水と新潟市」展は、大河津分水通水100周年・関屋分水通水50周年を記念した企画展である。

 江戸時代中期以降になると、水害を抑制し、新たな開発地を生み出すために、各地で放水路の開削が計画された。現在の新潟市域では、松ヶ崎掘割と内野新川が開削された。

 江戸時代、大河津(現燕市)付近で信濃川から海へ掘割を開削する計画が度々出願されたが、費用が膨大であり、大河津下流の流域では諸藩の領地が混在するため、村々の利害調整が困難であることから、実現しなかった。

 明治元年(1868)5月、大雨により信濃川が増水し、堤防が決壊して平野各地に大水害が発生した。同年7月、黒鳥村(現新潟市西区)庄屋の鷲尾政直らは大河津分水開削を願い出た。これを受け、越後府は翌年工事開始にあたるものの、政府は財政難を理由に工事を認めなかった。このため、工事費用の全額を官費で賄う計画を改め、費用の6割を地元負担として工事が再開された。しかし、地元の負担は大きく、明治5年には信濃川流域の農民たち1万数千人が負担の軽減を求めて大河津分水騒動を起こすに至った。こうした中、政府はオランダ人土木技師リンド―に分水工事の調査を命じた。調査報告によると、下流の用水取水への支障、信濃川の舟運や新潟港の機能低下を招く等の指摘があり、政府は明治8年に工事を中止した。

 工事中止後、信濃川の河身改修工事・堤防改築工事は進められたが洪水は絶えず、特に明治29年の横田切れは明治最大の水害となった。これを受け、県会では大河津分水工事の再開を求める「信濃川治水方針に関する建議」が決議された。明治40年には信濃川改良工事の議案が帝国議会で議決され、同年から国が直轄する信濃川改良工事として着手された。この工事(第二次)では、土木技術の発達により第一次工事に比べはるかに効率的に進められた。こうして大正11年(1922)自在堰が完成し、分水路の通水が実現した。

 大河津分水の完成により、信濃川下流の水量調節が可能になり、水害が激減した。これ以降、各地で排水の整備や用水の確保、農地の改良などの事業が進められた。河口に位置する新潟では、第二次工事再開と同時に河口修築工事の実施が決定し、新潟市と沼垂町の合併後の大正6年からは築港工事も進められた。都市計画に基づく街づくりも大河津分水による治水の実現と築港の成果を取り入れながら進められた。

 江戸時代や明治時代から計画されていた関屋分水工事は、昭和39年に国から認可を受け、昭和39年の新潟地震を経た後、昭和47年(1972)に日本海への通水を実現した。

(講演終了後、森行人氏による解説のもと、観覧を行った)