12月の例会=報告

12月例会
平成25年12月21日

「謙信時代の新潟津と醍醐寺僧の付法活動」
本会会員 小川 敏偉 氏

〈講演要旨〉
新潟町が白山寄居島に移ってくる前、どこに所在していたのかという問題は近世新潟町の変遷につながる重要な問題である。その問題について新しい史料をもとに報告したい。
高野山清浄心院『越後過去名簿』は、いわゆる高野聖が越後各地を廻り回向の依頼をうけ、それを「過去帳」としてまとめた史料である。その中に永正17(1520)年「正春 新方 田中トノ」の記事があり、現在「新潟」の初出史料と考えられる。同時に「新潟宝亀院」「新潟不動院」の記事も見ることができる。
旧堀之内町弘誓寺の「不動明王座像」像底部には「越後国蒲原郡平嶋郷新潟津不動院之御本尊」と記されており、不動院の「権大僧都法印教印」が永禄9(1566)年にこの仏像(本尊)を造らせたことがわかる。しかしこの御本尊がいつ、なぜ弘誓寺に招来されたのかがよくわからない。
『永禄六年北国下リノ遣足帳』は、戦国時代醍醐寺の僧侶が付法活動を行うため各地を廻った時の史料である。永禄7年会津を通って新潟に来ている。蒲原・沼垂を経て乙宝(法)寺へ行き約1ヶ月程滞在している。乙宝寺では伝法灌頂(真言の奥義を授け師位を与える儀式)を行っていたのであろう。
新潟津の所在について、前嶋敏氏は西川にかかる平島橋北側一帯の地域と特定されたが、平島は湊として欠陥のある場所である。湊には小高い砂丘地形が不可欠で、『遣足帳』の渡りの舟賃や距離の記述などから関屋金鉢山周辺がその所在地と考えられる。そしてふもとには町があり、元亀年中(1570~73)には白山寄居島および古新潟へ移動したと考えられる。
乙宝寺は越後における中心寺院の一つであった。醍醐寺の「史料データベース」などから『遣足帳』永禄7年乙宝寺を訪ねた僧侶は、醍醐寺報恩院正嫡「深応」の可能性が高い。また乙宝寺執事(故)小川義昭氏の研究を参考に同寺の『血脈』を遡ってみると、乙宝寺の2回目中興「俊志」の時にこの『遣足帳』の僧侶の付法がなされたと思われる。同時に新潟不動院・宝亀院も付法を受けたと想定され、乙宝寺を田舎本寺とし、新潟不動院・宝亀院が末寺となり、三寺ともに醍醐寺報恩院末の関係になったと考えられる。