11月の例会=報告

11月例会
平成25年11月16日

「在新潟イギリス領事館と新潟町民・味方尚作」
本会会員・新潟県立歴史博物館副館長 青柳 正俊 氏

〈講演要旨〉
新潟は明治2年(1869)に開港されたが、開港当初外国船の入港はかなりあった。しかしその入港船は横浜や函館などすでに交易を終えた船で、単に交易港としての新潟港を「試用」してみたという船であった。その後も新潟港での交易は伸びることはなく、中国の飢饉による米の特需が明治12年にあっただけで、同18年最後の西洋人居留商人が新潟を去り、「開港場・新潟」は一つの区切りを迎えた。
この開港後の新潟の様子について、イギリス領事が本国に年次報告を送っていた。詳細は拙著『開港場・新潟からの報告―イギリス外交官が伝えたこと―』(平成23年・考古堂書店)を参照していただければありがたいが、例えばラウダーはイギリス公使パークスに、新潟は水路による行き来が容易で奥州・出羽の養蚕地域、越後の茶栽培地域、会津の銅山の積出し地となっており、日本の主要な交易地の一つになるであろうなどと報告している。その他注目すべき報告が多数あるが、同5年エンスリーの離任に伴い新潟イギリス領事館は閉鎖されてしまった。
その後同9年に再度領事館は開設されることとなった。そしてこの時も書記官として採用されたのが味方尚作である。彼は吉田松陰や寺門静軒などとも交流のあった学者であり教育者であった。明治2年から領事館書記としてつとめ、トゥループとともに米沢や加賀・越中などへも出張している。またトゥループが北海道へ転勤を命じられ家族の荷物を輸送する際輸送船が難破し、その荷物の再輸送まで担当している。
トゥループの後、新潟イギリス領事館にはエンスリーそしてウーリーと二人が着任したが、明治12年同領事館は閉鎖されることとなった。この明治9年から12年までの後半の領事館の所在地は「寄居大畑通壱番地第千拾六番地、小田平十郎屋家」「寄居西大畑通一丁目千十六番地」などと史料に記されているが、現在のどこになるのであろうか。
新潟でのイギリス領事らが味方尚作に求めていたものは、英語の能力や西洋的なセンスなどではなく、むしろ優れた人文的教養、豊かな世間知、地元での厚い人脈などを併せ持った、彼の新潟町民としての確固たる存在感であったと考えられる。